『反日種族主義』を読む③~嘘に寛大な種族主義の精神文化の社会〜 | 波立つ海に沈みゆく月 ~旧統一教会さよならブログ~

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統一教会は、だいぶ前から衰退している。二世の未来は全体として明るくない。
これに最後に責任を持つのは、本人と社会だと思ふ。(しばらくブログの本説明文をいじります)

書籍『反日種族主義』(2019年、李栄薫[編著])は、韓国の学識者らによって執筆された、のはびこる韓国社会への強烈な学術的批判書であって、その内容は統一教会の組織文化への批判としても有効であるように思われる。

 

そこで、このブログでは『反日種族主義』を読み、印象に残った内容を紹介していきたい。それで韓国社会の実像を知れば、少しは統一教会の実像も理解できる、のかも知れない…。

 

第3回の記事は、前回の記事に続き、書籍『反日種族主義』より、韓国社会に広がる嘘の文化について紹介する。それはつまり、韓国の民族主義とは、自由で独立な精神という概念のない種族主義の精神文化の社会であって、その社会こそが嘘に寛大な社会なのだと言う話であった。

 

 

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前回5/11の記事で紹介したとおり、書籍『反日種族主義』は、現代の韓国社会に拡散した嘘の文化について、嘘をつく国民、嘘をつく政治、嘘つきの学問、嘘の裁判という言葉で辛辣な批判をしている。そして1960年代からの韓国の大学の学問が、韓国社会に嘘を生産し蔓延させてきたという話であった(『反日種族主義』 プロローグ)。

 

しかし、こうした批判は行き過ぎではないかという疑問も生じてくる。確かに韓国社会に嘘が広がっているのだとしても、それは果たして韓国特有の特別なものなのかという疑問もある。別に韓国でなく、例えばこの日本の社会であっても、多かれ少なかれ社会的な嘘は潜んでいるものである。

 

だから『反日種族主義』で言わんとする韓国社会の“嘘の文化”とは、どのような社会のどのような文化を意味しているのか、もう少し具体化してみたい。

 

これについて、李栄薫氏は、60年間に渡り韓国社会に拡散した嘘の文化を、精神史という観点から下記のように説明している。その李栄薫氏の言葉によれば、韓国社会において人々が嘘をつくのは、知的分別力や羞恥心を欠いており、嘘による利益が大きいからだという。そして、そうした韓国社会の集団の文化を、嘘に寛大な社会であると表現しているのである。

 

この言葉の意味を反対から解釈してみれば、ある健全な社会の人々が嘘をつかないのは、それらの人々が嘘をつくことを知的に分別し排除しようとするからであり、その嘘に羞恥心を抱くからということになろう。もし社会の人々がそうした精神を欠く時には、嘘をつくことに寛大な雰囲気の社会となってしまう。こうした社会を、李栄薫氏は、韓国社会は嘘に寛大な“精神”で支配されているというのである。

 

嘘が作られて拡散し、やがて文化となり、政治と司法を支配するに至った過ぎし60年間の精神史を、何と説明したらよいのでしょうか。人が嘘をつくのは、知的分別力が低く、それに対する羞恥心のない社会では、嘘による利益が大きいためです。嘘をついても社会がそれに対して寛大であれば、嘘をつくことは集団の文化として広がって行きます。

(『反日種族主義』、「プロローグ 嘘の国」、p.23)

 

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韓国が“嘘に寛大な社会”であるという『反日種族主義』の指摘。その社会の姿について、もう一人の別の人物の言葉を紹介したい。その人物とは、そう、あの李承晩氏である。

 

李承晩氏は、1904年に獄中で執筆した自書『独立精神』の中で、韓国と中国の嘘をつく文化について事細かに描写している。それらは、下記のとおり、当時の朝鮮半島の家庭や社会の姿の描写であった。まずはそれを一度読んでいただきたい。

 

その描写は、朝鮮半島の社会の中では、他人に騙されるよりかは返って人を騙してでも生き抜いていくことが大切だという社会的価値観の話であった。李承晩氏は、嘘をつくことが朝鮮半島の社会を滅茶苦茶にしていると言い、その社会の実情を憂いながら、自書の中で、韓民族には自由と独立の精神が必要だと訴えたのである。


そして書籍『反日種族主義』は、100年以上前に李承晩氏が訴えた自由と独立の精神が現代の韓国社会には受け継がれておらず、むしろ、ここ60年の韓国社会の精神史は嘘に寛大な精神が支配するようになってしまったのだと指摘するのである。

 
今日大韓と清国をここまで滅茶苦茶にしている一番大きな原因は一体何なのかと言えば、嘘をつくこと、それがまず第一だと言うことができる。…上の者は下の者を騙し、子供は親を騙すが、他人を上手に騙す者を賢いとか聡明だと言い、騙さない者をできそこないだの間抜けなどと言う。父母が子供を諭すのに他人に気を許すなと言い、先生が子弟に訓じるときに嘘で誉め、人間万事にそれなりに関係のあること、あるいは関係のない事柄にも嘘と謀が蔓延し、それを礼儀とも言い、権謀術数だとも言って、これは無くてはならぬもの、これ無くして働き手に腕がないと言う。
 
…たった二人の間の私的なことも議論できないというのに、どうして国の重大な問題を語り、決定することができるだろうか。…実に恥ずかしく悔しく残念なことである。

(『反日種族主義との闘争』、「エピローグ」、p.358)

 

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上述したように、書籍『反日種族主義』には、韓国社会における2つの“精神”が登場する。そのひとつは自由と独立の精神であり、もう一つが反日種族主義の精神(=集団心性)である。

 

つまり韓国の民族主義の“精神”が、自由で独立的な個人という概念を欠いており、それこそがまさに反日種族主義という集団心性の精神であるということ。そしてそうした社会に、ありとあらゆる嘘が広がっているという説明である(下記参照)。

 

ところで、なぜ自由で独立な個人という概念がない社会には嘘が広がるというのだろうか。その答えは、「反日種族主義」の「種族」というキーワードにある。


書籍『反日種族主義』では、韓国の民族を一つの集団(=種族)として、隣の日本に対する敵対感情を抱く、韓国人の集団心性を反日種族主義と呼んでいる。そして、その「種族」主義の文化は、その社会の中で、ある時は小さな家族単位の集団文化となり、別の時には地域単位の集団文化となる。

 

私が思うに、この話は、韓国のウリとナムの文化の話に関係すると思う。自分の集団に属するウリ(私たち)を大切にし、他の集団に属するナム(他人)を軽視し敵対するとき、そこにウリの利益のためには多少の嘘はついても構わないという共同意識の文化となり、それが嘘に寛大な社会として表れているのだということだ思う。

 

韓国の民族主義には、自由で独立的な個人という概念がありません。韓国の民族はそれ自体で一つの集団であり、一つの権威であり、一つの身分です。そのため、むしろ種族と言った方が適切です。隣の日本を永遠の仇と捉える敵対感情です。ありとあらゆる嘘が作られ広がるのは、このような集団心性によるものです。すなわち反日種族主義です。

(『反日種族主義』、「プロローグ 嘘の国」、p.24)

 

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最後に、「嘘に寛大な社会」という観点から、統一教会のことに触れて記事を終えたい。

 
上述したとおり、書籍『反日種族主義』は、自由で独立的な個人という概念がない種族主義の社会では、自らの集団の利益を優先し、他の集団に敵対するために、あらゆる嘘が生まれるとしている。それが、この書籍で言う“嘘に寛大な社会”の意味である。
 
この言葉を、統一教会の組織文化にもそのまま適用してみる。
 
統一教会とは、自由で独立的な個人という概念が希薄であった。自らの集団を神側として絶対し、それ以外の他の集団をサタン側として敵対する宗教であったとも言える。
 
そうした統一教会に潜む“嘘の文化”を、書籍『反日種族主義』の言葉を借りて表現すれば、以下のような言葉になると思う。結構、的を射てはいないだろうか…。
 
統一教会には、自由で独立的な個人という概念がありません。真の父母と統一教会はそれ自体で一つの集団であり、一つの権威であり、一つの身分です。これは真の父母を中心とした家族主義と言うのが適切です。サタンを中心とする外の世界を永遠の仇と捉える敵対感情です。ありとあらゆる嘘が作られ広がるのは、このような集団心性によるものです。すなわち真の血統主義です。
by うすワサビ
 
 
次回の記事では、書籍『反日種族主義』より、韓国の「嘘に寛大な社会」の根底にある物質主義について紹介する予定である。お楽しみに!
 

 

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