統一教会、そこにあったもの⑤〜真の父母という異次元の実体モデル〜 | 波立つ海に沈みゆく月 ~旧統一教会さよならブログ~

波立つ海に沈みゆく月 ~旧統一教会さよならブログ~

統一教会は、だいぶ前から衰退している。二世の未来は全体として明るくない。
これに最後に責任を持つのは、本人と社会だと思ふ。(しばらくブログの本説明文をいじります)

この社会の一般の人々にとって、または大多数の人々にとっては、統一教会なんてところは怪しい宗教で、そこに入信する人は浮世離れした特殊な人だと漠然と思っているに違いない。

 
しかし、統一教会、そこには信徒たちがのめり込むだけの理由があった。それは一体何だったのか?
 
 
・ ・ ・
 
入信者たちは初めはメシアではなく教理を信じた
 
カルト宗教を含む宗教は、その教理や信仰の対象によって、いくつかのタイプに分けられる。その中で統一教会の信仰は、人としての人類の救世主(=メシア)を絶対的に信じるものであった。
 
その信徒たちは、統一原理という教理も当然信じていたが、それ以上に、教祖(文鮮明氏)とその妻(韓鶴子氏)を“真の父母”と称し、絶対的な存在として信仰していた。それは、あたかも小説の中の架空の話のように思えるが、信徒たちにとってそれは確かに現実だった。
 
信徒たちは、なぜ人としての存在をメシアとして信仰するようになったのか。
 
その厳密な答えは学者や専門家に委ねたい気持ちだが、少なくとも信徒たちは、入教する時点では特定の人間を信仰しようなどという意図は持っていなかった。ほとんどの信徒は、統一教会の教理を受け入れた結果として、その信仰の対象がたまたま文鮮明夫妻であったのだと思う。
 
そしてその後、信徒たちにとって文鮮明夫妻は、この世界に希望をもたらしてくれる唯一無二の存在になっていった。その教祖は神自身ではなく“人間”であるとはされていたが、ほとんど神と同等の存在であったと思う(※原理講論・前編「第七章 キリスト論」も参照)
 
このように実体の人間を神のごとく崇めるというのは、常識目線で見れば、飛躍した非現実的世界の出来事のように映ろう。しかし、人はこれまでさまざまなものを信仰の対象にしてきたことは歴史が証明している。
 
そして現実の人間を信仰の対象として信じたことの意味は、目の前に信仰の実体がいることで、信仰が現実になり得るのだという確信を抱くのに役立ったからだと思える。
 
 
 記事は長いので、まずはご一服を^^
 
 
 
・ ・ ・
 
その教理がメシアを“メシア”にした
 
それでは、統一教会の信徒たちは、どのような経緯を経て文鮮明夫妻をメシアとして信じるようになったのか。
 
もしいきなり「この方がメシアである」と紹介されても、それを信じる者はいないだあろう。信徒たちがメシアを信じるようになった理由は、教理とされた統一原理が関係している。
 
統一教会の信徒たちは伝道されたのち、原理講義という形式によって統一原理について思想教育がなされた。その過程で離脱者がほとんどだったといわれるが、半信半疑を抱きながらも統一原理を真理と信じるようになる者もいた。
 
こうして統一原理を真理と受け入れた信徒たちが、文鮮明夫婦もメシアとして受け入れるようになった。

実際に信徒が、統一原理によりメシアを受け入れた理由には、主に次の二つであったと思う。
 
一つ目は、文鮮明氏こそが、人類を救うための最終的真理として統一原理を解き明かしたメシアであるという理由であった。つまり、長い歴史の中で真理を明らかにできた方こそがメシアなのだという説明であった(※原理講論「総序」の最後の部分も参照したい)
 
もう一つの理由は、統一教会の教理内容自体によるものである。統一原理は、人類の不幸の原因を人類始祖の性的堕落であるとする。そこから始まった悪なる人類を生みかえ救ってくれる真の父母が、まさに文鮮明氏夫婦であるというのである(※原理講論・前編「第七章第四節 重生論と三位一体論」も参照したい)
 
これらの教化システムは、信徒がメシアを信じるようコントロールするために、統一教会側が作り出した伝道システムであったといわれている。
 
その一方で、信徒たちが文鮮明夫婦をメシアとして受け入れるようになった信徒側の理由があったと私は考えている。
 
それは、信徒たち自身にも、個々にメシアを信じたいと願った精神的または現実的な理由があったのである。信徒たち自らが願う目的の達成のために、メシアという存在を利用したということ。この観点も私は忘れてはならないと思う。
 
 
信じたその先にあったものとは?
 
 
 
・ ・ ・
 
信徒はメシアとして真の父母を信じ、組織の目的に貢献した
 
以上に述べたように、かくして統一教会の信徒たちは、文鮮明夫妻をメシアとして信じる群れとなった。こうした信徒たちの信仰において、統一教会のメシアという存在はどんな存在であったか。
 
ひとつ目は、信徒たちにとってメシアは信仰の理想であった。
 
統一原理によると「メシア」とは、神側の善なる血統を持ち、罪悪世界と戦って勝利した者であり、神が人類に与えた三大祝福の完成者であった。すなわち「メシア」という存在は、罪のない完成された人間で、かつ人類の父母として真の愛を抱く真の父母という存在でもあった。
 
これは信仰の理想として極めて観念的であって、現実的とは言いにくい。しなし、そうした信仰の理想が化体した実体の人間がいることで、その信仰の理想は「信徒たちの確信」になったといえる。
 
したがって、信徒たちにとって「メシア」とは、その信仰の道において実体のある理想モデルであり、信徒たちのロールモデルであった。信徒の中には、メシアのように全き者であろうとする者もいたし、そうでなくとも長い時を経ていつか全人類はメシアのような者になれるのだという信仰があった。
 
こうした信徒たちがなすべき信仰の義務のことを、統一教会の用語では「信仰基台」と言った。信徒たちは、メシアを迎えるために信仰基台という条件を立てる必要があるとされていたが、とどのつまり、メシアのようになるということが信仰の究極の目的だったと思う(原理講論「緒論」も参照したい)
 
ふたつ目は、信徒たちにとってメシアは宗教組織の絶対的リーダーであった。
 
広く知られているように、統一教会という宗教組織は、教祖の血族による指導体制から成り立っていた。統一教会では、教祖とその妻は真の父母、その子供たちは真の子女とされ、一般信徒との間には乗り越えることのできない壁があった。
 
統一教会の教理によれば、その信徒たちは、自分よりも神側にいる者に従うべきであるとされていた(アベル・カインの教理)。その教理は、組織の内部において、組織の長と一般信徒の関係、および信仰の先輩・後輩の関係を厳密なものにした。ただし、そうした信徒間の関係は、必ずしも強制的な主従関係ではなく、教理の上では信徒間の愛による自発的な関係であるとされていたと思う。
 
しかし、教祖である真の父母に対して一般信徒は、極めて強い服従が要求された。その教理上の論理は、教祖である真の父母は真の愛の所有者であるため、その絶対的な真の愛に応えるために、信徒たちにも教祖への絶対信仰、絶対愛、絶対服従が要求されるようになった(※「家庭明誓」も参考)
 
そうした信徒の間の関係形成という信仰上の義務のことを、統一教会の用語では「実体基台」といった。信徒たちがメシアを迎えるのに実体基台という条件を立てる必要があるとされていたが、そうした教義は結果として、信徒たちが自らの信仰よりも教会組織の目的を優先させる下地になっていたように思う(※原理講論「緒論」も参照したい)
 
 
信仰と実体、果たしてどちらが大切ですか?
 
 
 
・ ・ ・
 
まとめ 〜真の父母とは現実世界にどのような“実体”として存在したのか〜
 
以上、だいぶ長くなったが、最後に本記事のまとめをしたい。
 
統一教会の信徒たちは、教理である統一原理を真理として受け入れ、続いて教主・文鮮明夫妻を人類の救世主(メシア)として受け入れた。これにより信徒たちにとって、メシアであるところの「真の父母」が信仰の理想となった。しかし、それと同時に、教主に従うという信仰の義務も課せられたのであった。
 
信徒たちは統一原理を教理として信仰していたが、その教理は不完全なものであるとされていた。というのも統一教会では、真理は統一原理によっても未だ完全に明らかになっていないとされており、メシアにより時が至ればさらなる真理が明らかにされていくと説明されていたからである。その結果として統一教会では、教理である統一原理よりも、メシアが語るみ言葉の方が信徒にとって優先すべきであった(※原理講論「総序」の最後の部分も参照したい)
 
結局、信徒たちは教理である統一原理によりメシアを信じておきながらも、メシアという“実体”とそのみ言葉が絶対的なものとして優先された。その結果、教理に基づく自発的な信仰はおざなりになってしまったと思う。さらに言えば、メシアという“実体”の人間が絶対視された結果、メシアの価値よりも統一原理の教理の価値は常に一段階低くなった。そして、メシアという絶対的な実体が信じる限りは、信徒にとって教理の内容を検証する意味自体がなくなっていたように思う。
 
私は最後に、こうした統一教会の“信仰”の態様を顕著に表すエピソードをひとつ紹介したいと思う。文明師氏は若き頃、キリスト教会に通い、牧師に次のように質問したと伝わっている。
 
「キリスト教を信仰したら、
私もイエス様のようになれるのですか。」
 
これに対する牧師の答えは「イエス様のようにはなれない」というものだったと聞いている。この答えに若き文明師氏は憤慨し、後年になって、統一原理を解明したと伝わる。
 
万民がイエスのようになれるとして、その“実体”としての人間を生み出すことを信仰の理想とした統一原理。私も、そうした教えが素晴らしいと思った一人である。しかし、棄教した今になって思えば、信仰とはそんなものではないように思う。
 
「イエスのようになりたい」を実現して生まれた「真の父母」という実体の存在。それはこの三次元の世界に“実体”として本当にあったものなのか。突き詰めてみれば、統一教会の信仰というのはそうした異次元にある“実体”を信じるということにあったと思うのである。
 
真の父母という異次元の実体モデル。統一教会には、確かにそうしたものがあった。
 
 
真の父母を書いていたら、こちらもずいぶん長文となってしまった。真の父母って次元を超越してるなぁと感じることができた方は、以下を応援クリック!
 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合へ
にほんブログ村
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 家庭連合 批判・告発へ
にほんブログ村