竹下熊雄墓前で151年祭斎行 | 天忠宿のコゲ亭主

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傷ついた吉村寅太郎が療養したと言われる杉本屋の4代目コゲ亭主が、南朝の里「賀名生」や天誅(忠)組・神社関係の等の情報を発信します。


竹下(竹志田)熊雄は肥後藩士で、玉名郡大浜村に神官の次男として

この世に生を受けられました。


前侍従中山忠光卿を主将とする天忠組には最初の結成時の京都から

旗本ととして加わり、

五條代官所襲撃の時には抵抗する代官所役人を討取るなど

剣技に長じていました。

しかしその直後に五條の地で病に倒れ乾十郎宅で療養していましたが、

本陣が天辻、十津川へと移っていったために、駕籠に乗ってあとを追っていきました。

しかしそうした無理がたたって、風屋に到着する直前、

駕籠の中でこと切れてしまわれたのです。

齢21歳でした。

9月16日は、竹下熊雄が亡くなられてから151年目に当たります。

そこで天誅(忠)組記念館藤井寺展館長草村克彦氏の発案により

墓前において151年祭を斎行することになりました。

前日の夜は近畿地方でも大雨警報が出るような荒れた天気で

当日の空模様を心配していましたが、

朝起きるとすっきりとした青空であり、

現地についても前日の雨の影響もなく万全の中で祭祀を挙行できました。

竹下熊雄の出身地熊本県では、同県神社庁長大野俊康氏中心に、

活発な検証活動が行われており建碑や顕彰祭などが行われているそうです。

また大野俊康氏は靖国神社の宮司も務められましたが、

昭和49年とさらに平成3年に当地まで赴かれて

竹下熊雄の墓前にたたれてその遺徳をしのばれています。

風屋の共同墓地からみた風邪ダムの湖です。

福寿院に風屋の本陣を置いたのですが、

その福寿院は昭和35年にダム湖の中に沈んでしまいました。

ダム湖のそばには、天誅組風屋本陣跡の碑が建っています。


無事に151年祭を終え大塔の夢之湯まで帰ってきましたが
そこには3年前の紀伊半島豪雨大災害からの復興を願って建てられた
大塔復興の灯火の記念碑の星のマークが
鮮やかに目に映ってきました。