欣求寺了厳法師の碑。
欣求寺、西吉野村史によると
「西吉野町十日市にあった浄土宗本派本願寺末。
本堂は丹生川沿いの高処にあり、入母屋造妻入。
本尊、阿弥陀如来立像。高さ五四糎木像。
本堂前方右寄りに正面入母屋造り背面切妻造棧瓦葺の観音堂がある。」
西吉野村史が編纂されたころには、すでに了厳の碑のいた欣求寺は移転されていたのでしょうか。
わずかな広場の中にポツンと了厳の碑が立っていました。
昔建てられであろう案内板も朽ち果て、
『実記 天誅組始末』
によると
「天保七年生まれ。
欣求寺了厳(28歳)
和州吉野郡汗入村性竜寺生れ
欣求寺住職、小桜良源改め
碑には次のような文が彫られている。
小桜了厳師は文久3年白銀村汗入欣求寺住職となる。
師は寡言温厚、篤実識見に長じ、
夙夜精励、克己仏道に帰依し、
能く檀徒を善導し、衆望を一身に集む、……
……本願寺より召状を受けたるも一度帰郷し、
再度召されて4月3日、
齢29の若冠にして師は終に不帰の客となる、
子孫為に絶つ、
80有余年の星霜を経たる今日、
吾等相倚り諮りて師の道徳を偲び、
永久に伝へんと一碑を刻む
碑文に見るように、一旦は無事京都へ脱出した了厳だったが、
天誅組に参加したということでひどく西本願寺から譴責を受けた。
西本願寺は欣求寺の本山である。
太鼓楼に幽閉された了厳は絶食の果て、
自ら命を絶った。」
このように壮絶な最期を遂げた欣求寺了厳。
碑文が建立されてからも70年余り、
年月の経過は
西吉野から排出した天誅(忠)組の志士の面影を忘れ去ろうとしています。
以前から欣求寺了厳の碑を探そうと何回もこのあたりを通っていたのですが、
一人では見つけることが出来ませんでした。
今回の草村様のご案内がなければ、
ひっそりと人の目から隠れていっていたかもしれません。
麓に下りてきて少し見上げるとお寺が見えてきました。
現在の欣求寺から、了厳の碑のあるところを俯瞰してみました。
24年1月21日(土)午後1時から
AKM149講座(賀名生 皇居の 前で天誅(忠)組を学ぶ)を開催いたします。
第一回目は入門編ということで、天誅(忠)組記念館藤井寺展の館長 草村様に講演いただきます。
参加費は、資料館入館料、資料代込みで、1000円です。
この後、毎月の予定で講座を開催していきます。
25年の天誅(忠)組義挙150年に向けて、少しでも天誅(忠)組のことを理解していきませんか。