安濃津私考
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築城名人高虎...石垣番外編

石垣のお話がでましたので、「穴太衆」についてもう少し触れておきましょう。

穴太衆は比叡山の麓、近江の国大津坂本に室町期から伝わる石積みの技能者集団です。(4~5世紀頃に百済から来た技術者の子孫とも言われています。)現在も末裔の方がその技術を伝承しています。下の模式図は穴太積に伝承される技術の一つなのですが、上に配置された石の下部が外にせり出していることがわかります。この配置をとることによって雨水が滲み込み難くかつ攻城側の足場になり難くなります。



石垣模式図


現在も其の業を引き継いでいる14代粟田純司氏は石を積むとき、集積された石のまわりを2~3日かけて歩きまわり、その石がどこに行きたがっているか(どの場所に入りたがっているか)を見てから積みはじめるそうです。粟田氏は穴太積の真髄についてこう語っています。「石の声が聴こえる。その声を聴き分けて、行きたい所に持っていってやるのが仕事。」また、こうも言っています。「私は決して書いて残さない。なぜなら、それが最上のものと子孫が思ってしまうからだ。」師匠から弟子へ、穴太の技術は口伝で伝えられていくのです。(※現在の当主さんは第15代純徳氏です。)

築城名人高虎...その2

もう一つ高虎の築城で見ておかなければいけないのはやはり石垣でしょう。

津城はそれほどでもありませんが、高虎の築いた城では伊賀上野城の高石垣が有名です。実際は穴太衆が石垣を積んでいるのですが、高石垣が組めるような縄張りや塁造りをしたという点で高虎の業績とみても良いかと思います。ここで一つ、高虎も穴太衆も近江出身ということを頭の片隅に置いて検討を進めていく方がよいかもしれません。穴太衆は叡山麓坂本が本拠で高虎の出身地は甲良ですから地域的には同一とは言えません。しかし高虎が甲賀地区の出自であること、穴太衆がその実力を遺憾なく発揮したのが甲賀に近い安土城であったこと等を考えると、穴太積の技法もしくはその設計過程を高虎が知っていた可能性はあったと思います。また、高虎は武勇の面だけではなく数字にも強かったとの伝承も残っています。実際は現代で言う「複式簿記」の概念を既に身に着けていたそうですが、算術そのものがまだあまり普及していなかった時代であることを考えると計算(重量重心計算に近いもの)にも強かったのではないでしょうか。

津城の石垣に関するところでは「犬走り」が設けられていた事も高虎流築城術の見所でしょう。堀を渡り来る攻城勢に対する第一防御線として機能するほかにも、石垣のメンテナンスが容易になるなどのメリットがあったようです。

築城名人高虎...その1

津城を造った藤堂高虎は「築城の名人」と言われています。前にも触れましたが、その腕をかわれて江戸城などの縄張りも行ったほどです。

高虎の築城で特徴的なのは、まず縄張りです。敵に攻められた時に横矢がけなどの側面攻撃が行いやすいように角を多数もたせる塁造作を行っています。津城の場合も大きく見ると五角形ですが、細かく見ていくと47辺を持つ曲がりくねった形をしています。

津城には直接の関係はありませんが、高虎が手がけた伊予宇和島城も巧みに五角形の縄張りを配置し、当時の隠密ですら四角形の縄張りと勘違いしています。攻城側は外見上四角形ですから四辺用に兵を配置してしまいますが、実際は五角形ですから一辺が兵の配置のない状態となり、防御側の出撃拠点や物資の搬入路として使えるようになります。これを「空角の経始(あきかくのなわ)」といい、高虎が編み出した縄張りです。この縄張りは五辺の内複数辺を水上に出しているとその効果が倍増します。津城も中島口周辺の岩田川中堤を取りはらってしまうと「空角の経始」が完成します。

この「空角の経始」を用いた築城は、世界的にも高虎が始めて行いました。ゼーランダ城が五角形の縄張りを世界で始めて導入し、それを知った高虎が真似たと言われることもありますが、宇和島城の方がゼーランダ城よりも築城時期は早く明らかに高虎オリジナルです

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