私の夢の一つは、ローマに行ってカラヴァッジョの「聖マタイの召命」をこの目で見ることでした。この絵を写真で見てからというもの、ずっと心の中にこの絵がありました。



果たして、「聖マタイの召命」は、ローマのサン・ルイージ・フランチェージ教会の奥にそっと飾られていました。聖マタイの生涯を表わす3部作で、「聖マタイの殉教」、「聖マタイと天使」が続きます。




マカロンのサンクチュアリ  ~ココロは東へ西へ~


これは12使徒の一人でのちに「マタイによる福音書」を記したマタイが、通りがかったキリストに「私に従いなさい」と言われたシーン。



一番右の人物がキリスト。頭に輪っかがかかっていますね。マタイを指さしています。



そして、カラヴァッジョの絵で注目すべきなのは窓から注がれている光。この光に照らされているのがマタイということになります。



通常、美術界ではマタイはこの絵の左から3番目の髭の老人と言われています。



マタイは当時相当の年齢であっただろうということ。3部作の他の作品のマタイは、この老人と酷似していること。キリストの指先にいるのがこの老人に思えること、が根拠とされています。




マカロンのサンクチュアリ  ~ココロは東へ西へ~



ところが最近、日本を中心に、この絵におけるマタイは一番左のうつむいている若者ではないかとの説が有力になってきています。



理由の一つは、マタイは当時、最も賤しいと忌み嫌われていた収税人でした。役人の制服を着て、机の上で金貨を数えています。



私はこの解釈に行きあたった時、涙が止まりませんでした。誰よりも暗い顔でお金を数える、この若者こそがマタイだとしたら。



周囲の人間が指を差して非難し、世間が「この人だけは認められない」と評価を下したこの若者に、イエスは敢えてついてきなさいと言ったのです。私は無宗教ですが、この絵は、キリスト教の精神を雄弁に物語っているのではないかと思いました。



カラヴァッジョもまた、日々苦悩する人生に心をむしばまれていました。この絵を描いた数年後、殺人を犯して逃亡生活に入り、38歳で亡くなります。



放蕩の合間に絵を描くという生活をすることによって、自分の罪深さから目をそらし苦しみぬき、彼は悪人なりの「贖罪」の気持ちを描き続けたのかもしれません。



私にはカラヴァッジョが他人とは思えず、この若者のマタイの暗い顔にもまた、自分を見つけたのでした。この、皆から批判されながら救われようとしている収税人は、自分なのだと。



泣きつかれた後のような喉がふさがった気持ちでサン・ルイージ・ディ・フランチェージ教会の扉を開けると、夕立が起きそうな空の色になっていました。見上げると空から雨粒がひとつ、涙のように私の頬に落ちました。




明日も素敵な一日をお過ごしください。