一日24時間。





一時間は60分。





一分は60秒。





一秒は…?











んなことは知りません。


























静かに過ぎていくときは、確実に重みがあって、意味がある。





ただ、動きが静か過ぎるから、動きの激しい現代社会では、なかなかそのことに気づかないだけ。

















あるいは、気づかないようにしている。

















だかだか10年そこらでも、塵も積もればなんとやら、膨大な量の時間になる。








まず、「時間」の捉え方によって、様々な物事の見え方は変わってくると、思う。











「時間」とは?











時計の、丸いやつ。





一日24時間。





きっかり定められた、毎日毎日正確に、同じ円をぐるぐるぐるぐる、回るもの。?。














それだけかな?











同じ円をぐるぐるぐるぐるしてるだけなら、わたしたちは、なんてムダなことをしているのだろう。





自分の尻尾を追いかけて回る子犬のようなものだ。








それでは夢も情熱も枯れてしまう。














「時」は、平面なものではない、と思う。








ただの、同じ時間、同じ時刻、同じ円盤をなぞって動くもの、ではない。











「時」は立体的なもの。





そして幾重にも幾重にも、帯が重なるように交差しているもの。











でなきゃ、そんなにわたしたちは、時に惑わされるわけないじゃないか?








そんな「時」の交差点に立ったとき、時の穴に落ちたとき、わたしたちは夢を見る。歴史的な大発見をする。














でもそれは、「時」の立体性を感じなければ、感じづらい。





でも平面的に生きていても、たまには穴に、落ちるかも?


そうしたらなにか、新しい視界が開けるかもしれない。













































































って考えてたほうが、楽しいよね。
































人間が誕生して活動してる年代なんか、恐竜の生きた年代の何分の一にも当たらない。











所詮そんなせまい、そして大きな時のゆりかごの中で、手足をばたつかせてる子供でしかないのかも。




































































なんて。



































とりあえず、右耳から変な汁が垂れそうで垂れないことが、気になって気になって仕方ないです。