所謂「頭がいい」人と自分の何が違うのか、というのは定期的に考えるテーマだった。
それはもちろん通っている学校が違う、それに伴い学力も違う、交流する層も違う、誰もがパッと思いつくのはこんなところだろうが、僕が一番強く感じるのは「考える問題のスケール」だ。
国際問題、環境問題、ジェンダー問題……日本や世界を取り巻く大きな問題について考え、発信しているのはやはりそれなりの学がある人がほとんどだ。僕の元同級生は東大生なのだが、やはり教育問題について高校時代から考え、持論を展開していた。
いや、どれも考えるきっかけは日常の中にもあるか。逆に大きな問題だからこそ、我々の小市民的な日常にも干渉してくると言えるだろう。
要は思考の解像度が高い人たちなんだな。ニュース番組や新聞から得る情報をただ「ふーん」と受け取るのではなく、そこに疑問を抱いたり、自分なりの意見を形成できたりする人たち。だからこそ日常の中で起こったことを抽象化し、そういった社会問題と関連させて考えることもできる。
あと「考える必要性があった」という要素も大きいだろう。性差別に傷ついた人はジェンダー問題を、おかしな政策に振り回された人は政治問題を、といった風に。考えることが好きだから、などという高等なモチベーションで動いている人間は少数派のはずだ。
人間必要に迫られないとなかなか行動に移せるものではない。(ズボラな人間である僕の一意見である。笑)こういった層が思考するにふさわしい脳を持っているとは限らないので、珍妙な自説を垂れ流して周囲から煙たがられている事も多いのだが。
僕自身、多方面の問題に着目し自主的に研究しては最低限の見解を持つように心がけているものの、やはりそれぞれの問題を専門的に考え発信している人たちには到底敵うものではない。書いていて思った。当たり前だ。
性別や性志向、人種に国籍など、属性による差別を受けているわけでもない。教育的にも経済的にも恵まれた家庭に育った。馬鹿馬鹿しい政策に首を傾げることはあっても、それがダイレクトに生活を逼迫することはない。モチベーションの強さがまず違う。
そもそも僕が最もよく思考するのは、「外」ではなく「内」のことだ。自分の罪と罰、自分はどう間違っていてどう正しいのか、自分はこの先どう生きるか。……笑っちゃうぐらい自分ばかりだ。
それもそのはず、これこそ必要に迫られて考えているだけだ。崩れ落ちた自己肯定感を必死に支えるために、死にぞこなった10代の日の夜をどうにかして肯定するために、自分の事ばかり考えざるを得ないのだ。
このブログだって誰かに発信する事というよりは、自分の思考を整理する事が目的なんだし。
「外」の問題について考えるためには、最低限の自尊心もないといけないのかもしれない。
以前女友達と話した時、「周りはみんな考えが浅い、私たちは周りが気づけない問題に気づけるからすごいと思うよ」と言われたのだが、僕はあまり賛同できなかった。
君は「考えが浅い」と言い切れるほどその人と深く語り合ったか?その人は君とは全く別の分野における解像度がすごく高いかもしれないよ?そもそも「みんながバカ」と思う時は自分に問題があったりするもんだよ?……まぁ口には出せなかったが。
彼女も「内」について考えるタイプなので、「外」の問題にはたぶん無頓着だろう。「自分大好き!自分が一番かわいい!」と10代の頃の彼女からは考えられなかったことを言っていたものの、きっとあの子もまだ自分を肯定している最中だ。だからこそいっそう愛おしい(親友として)のだが。
ここで気づいた。僕は「考えないでいることが怖い」んだ。厳密に言うと、「考えなしで生きることで、彼女のような誰かから糾弾されることが怖い」「考えなしで生きることで、自分の知性の無さが露呈するのが怖い」んだ。
知的なコンプレックスというのは昔から抱えていた。それは元々「もっと頭が良くなりたい」という向上心による張り詰めた糸だったが、やがてそこに「批判されるのが怖い」「恥をかくのが怖い」という別の糸が絡まり、それは「考えていなくてはいけない」強迫観念という布を形成し、今僕の首をゆっくりと締め上げている。
自分に自信が持てないからこそ理論武装で身を守ろうという算段だ。だからこそ、自分より強固に武装した人間を見ると恐怖を感じるのだ。この鎧をいとも容易く破られ、生身をズタズタにされてしまうのではないかと。
とまぁここまで「自分に自信が持てない可哀想なボクちゃん」を演じてはみたが、それだけが全てではない。「思考力では負けたくない」という青臭い若者らしいプライドによるものも大きい。臆病な自尊心と尊大な羞恥心。思えば李徴こそエリートだったな。
だいたい勝ち負けって誰が決めるんだよ?そもそも僕は誰と戦ってるんだよ?
見えない敵と戦うのは10代で終わりにしたんじゃないのか?
もういいだろ、結局僕はどうしたい?どうなりたい?
頭がよくなればシアワセか?誰かの上に立てば、いや立ったつもりになればシアワセか?
そんな次元で物を考えてる時点で、僕は充分大馬鹿者だ。