「頑張る」ことについては色々と矛盾した思いがある。
頑張っているねと褒められたい、認められたい。でも言われたら言われたで苦しい。
頑張るのをやめたら見放すくせに。そして「頑張っている」かどうかジャッジするのは自分じゃない、向こうだ。
自分のやりたい事のために頑張るのは好きだ。その過程が楽しくなくても、苦しくても、達成したいと思える目標があれば何とか乗り切れる。
でも世の中はやりたくない事だらけだ。
不用意に投げかける「頑張れ」が鬱陶しい。そっとして欲しい。
それはきっと僕自身が「頑張る」を何より美徳としているからだ。「頑張らねばならない」「苦しい事にも耐えねばならない」。そんな苦しい価値観に疲れて、もう手放したくて、だけど周りがそれを許さなくて、辛い。
中学受験した時から始まった「もっと勉強しなさい」「もっと自己管理をしなさい」「もっと有意義な事にチャレンジしなさい」常に走り続けなければいけないというプレッシャー。
気の休まる日などなかった。体は休めていても、心は罪悪感と焦燥感で常に切羽詰まっていた。
今なら分かるよ。大人は、特に教育者は子供に発破をかけるのが仕事だ。特に僕は勉強嫌いで宿題もサボりがちだったんだから、そう声をかけるのが当然だ。大人が軽く放った言葉を僕が重く受け止めすぎていただけだ。
でもあの時僕は辛かったよ。陳腐な言い方だけど、僕は僕なりに必死で勉強していたよ。
なぁ母さん。今になって「あんたあの時頑張ってたよね」と言ってももう遅いんだ。なぜあの時そう言ってくれなかった?あの時僕が一番求めていた言葉だったのに。
わかってる。わかってる。周りの大人たちの気持ちもわかる。だからこそ辛いんだ。一方的に怒りをぶつけられない。辛いのは僕だけじゃなかったんだから。思考に感情がついていかない。
大人になって下手に物分かりがよくなったぶん、かえって苦しい。「視野を広げること」「他人の気持ちを想像すること」いい事とされているが、今の僕には苦しいばかりだ。
子供の頃にかけられた言葉は時に呪いになる。
僕は今塾講師のアルバイトをしている。今の子供は僕の世代以上に忙しいだろうに、夜遅くまで塾に通って授業を受けて自習室に行って、健気のひとことだ。
それで充分だ、と肯定はしたいが厳しい受験戦争の中ではそうもいかない。他の講師も塾長も「頑張れ」という言葉を湯水のように使う。
それが彼らなりの愛だということも、あるいは特段深い意味などないということもわかっている。それでも時々苦しくなる。「頑張れ」の呪いがあの日少年だった僕にせっせとかけられているようで。
だから僕は「頑張れ」を言わない。言った方がいい時ももちろんあるのだろうが、無闇に乱用しないようにしている。目の前の少年少女が「頑張る」の呪いに人生を蝕まれないように。
聞こえはいいが、救いたいのは子供たちじゃない。10年前の自分だ。小学生の頃、1人でも自分を赦してくれる人がいてくれたら……そんなくだらない幻想だ。
それでも動機としちゃ充分だろう。
やらない善よりやる偽善。