硫酸男。
この頃ニュースで散々騒がれていることですし、僕が詳しく説明する必要もないですね。
彼は大学時代の後輩に、卒業後突如「俺のことを馬鹿にしただろう」と怒りを露わにし硫酸をかけた。
まるで中東諸国におけるアシッドアタックのごとき凶悪かつ卑劣な犯行です。擁護の余地がないことは言うまでもないのですが、今回僕が言いたいのはそこではない。
彼はあり得たかもしれない僕の姿に他ならない。
彼が怒りをぶつけたかったのは本当にその後輩だったのか。怒りや悲しみというのはある程度時間が経ってから突如として燃え上がることもあるため、大学を卒業して縁が切れた後にも関わらず、本気でその後輩に復讐を誓っていた可能性も否定できません。
ただ、僕にはこう思えてならないのです。彼が本当に怒りをぶつけたかったのはこの世界そのものだったのではないか。
勝手な妄想といえばそれまでです。見当違いの戯言にすぎないかもしれない。
ただ僕の考えが当たっているのなら、いや当たっていなくても僕はあの硫酸男のようになり得た。それだけの孤独と絶望の中を生きていたと改めて思い知りました。
そう、死にたいも殺したいも大した感情じゃないんだよ。花が咲いたからとか空が鼠色だからとかそんな理由でインスタントに生まれては消えていく、炭酸の泡みたいなもんだ。
炭酸飲料を開けたまま放置しておけば次第に水中のガスが空気に逃げ出し、いわゆる「気が抜けた」状態になる。死にたいだとか殺したいだとか、そんな名前のついたガスは日々の中でどこかに逃げていくから、僕たちは硫酸の入った瓶を手にせずにいられるんだ。
だが、プルトップが開いていないコーラの缶やキャップが締まったままのサイダーのペットボトルを勢いよく振ったらどうなる?当然開けた時ブクブクと泡が溢れ出すだろう。
人の気持ちもそれと同じなんだよ。他者や自分自身の手で心が揺さぶられてしまえば、死にたいだとか殺したいだとかそんな感情は行き場をなくして心の中に積もり積もっていき、やがて何かのきっかけで溢れ出す。
今回の彼は「勢いよく振られただけの、ただの炭酸飲料」にすぎない。
「甘えるな」?「苦しけりゃ自分一人で死ね」?あの、そんな声でこういった事件は無くせないんですよ。そんな声をぶつけてくる社会は敵です。敵の言うことに誰が耳を貸すものか。むしろ腹いせで社会の一部である他人を巻き込んでやりたいというのが当然でしょう。
そう、人は皆社会の一部であり、それは僕の周りにいる人々もまた然り。社会というものは得体の知れない強大な敵ではなく、人間の集合体にすぎないのです。だからそう一方的に怒りを募らせる必要もない、そう僕が気づけたのは本当にごく最近です。
だから彼一人が特別おかしな人間ではないと思うのですよ。むしろ僕に近しい存在だ。
10代の僕も行き場がないままひたすらに怒りと憎しみを募らせ続けていた。なぜそれに耐え続けてこられたか?それは、ある強迫観念があったからです。
「自分は人より劣っているのだから、他の面では人より優れていないといけない。だからそのために努力し続けなければならない。」
子供の頃からコンプレックス塗れの人生を生きてきました。会話が苦手、衝動性が強い、理解力が低い、注意力散漫、計画性がない、運動が苦手、容姿が悪い、容量が悪い……そしてセクシャルマイノリティである。
それらの欠点を覆すためには、いや、覆さずに生きることを許されるためには他で周りを遥かに凌ぐような高いスペックを手に入れないといけない。学歴、収入、資格、人脈……。そのためには努力を惜しまず生きていかねばならない。そんな強迫観念があったから、辛うじて僕は道を踏み外さずに生きてこられた。
この強迫観念は自分の中で未だに強固に根付いてなかなか引き抜けずに困っているのですが、こうして振り返ってみると、意外な形で役に立っていたのですね。
大学生になって行動範囲も広がり、様々な人と交流するようになって僕の価値観も変わりました。いや変わってはいないものの少しずつ自分を許せるように、むやみに追い込まないように心がける事を覚えました。
ただそれは結局僕の力ではないのです。価値観や思考の刷新は僕自身が成し得たことですが、そのきっかけはこれまでに出会えた他者との交流でした。
もし少し運命が異なっていたら。
もし少し出会う人が違えば。
もし僕が10代の頃のような強迫観念を捨てられず死に物狂いで努力を続け、それでも足りずに現実に絶望して「もうみんな死んでしまえ」とか「死んで楽になりたい」とか思うことがあったら……。
今僕の手の中にあるものはスマホではなく、硫酸の入った瓶だったかもしれない。