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日本ツアー
オーストラリアツアー
その後のハイドパークフリーコンサート
この前後に起きた出来事とともに
次のアルバムのレコーディングを
拾って来ますね
大分それちゃってました😓
ブライアンが5月29日にクリッシーと結婚式を挙げる
(散々書きました😅)
6月18日 You're My Best Friend が発売
そして9月18日ハイドパーク
クイーン 華麗なる世界の本には
アルバムレコーディングの中盤に
ハイドパークでのフリーコンサートを開こうと言うアイデアが出た
と書かれてあります
ここの所がそれぞれの記事によって違うので
真実がどれなのか不明です
アルバムは10月中旬に完成しました
まずはリッジファームで
リハーサルを行ったようです
ここから下の記事
同じ本や英文の記事よりお借りします
1976年7月マナースタジオに入った4人は
意気揚々と新作に向けたセッションを開始
マナースタジオは
ヴァージンレコードのリチャードブランソン所有の自宅兼スタジオ
マナーハウスと記されているものもあります
ヴァージンレコードのレコーディングスタジオとして使用されていましたが
他のレーベルと契約したアーティストもスタジオを使用していました
クイーンのこのアルバムでは
バッキングトラックで使用しています
これがマナーハウス↓
マナーハウスの後
再びサームイーストスタジオでミックスを行い
ウェセックススタジオでの
ポストプロダクション(編集等の作業)を経て
このアルバムは完成しました
クイーンの4人は
これまで長い間
ロイトーマスベイカーと共に歩んで来ましたが
そろそろ離れ際が訪れたとの決断を下しました
代わりに重要な役割を果たしたのが
主任エンジニアのマイクストーン
彼は長年クイーンの技術面を担当しており
ファーストアルバム以来の付き合いで
5人目のクイーンとも言われていました
Bohemian Rhapsody で彼が発揮した
オーバーダブのスキルは実に印象的でした
マイクストーンは
フレディマーキュリーにとって
強力な味方かつ協力者であり
彼の控えめだが確かな存在感のおかげもあり
クイーンの面々にとってうまく物事が進みました
マイクストーン氏
(1951 – 2002年5月
50歳か51歳で亡くなっています)
一応載せておきます↓
写真もこれ以外あまり無いようです
高度に洗練された
先鋭性を帯びているにもかかわらず
同時にぬかりない商業性を備えている
ポップスであり
クイーンのトレードマークである
ハードロックの要素
そしてクラシックの影響を受けた
美しい旋律との融合
それがこのアルバムでしょう
オペラ座の夜は
これまでで最も費用のかかったアルバムでしたが
複雑なスタジオトリックの量のために
華麗なるレースのはほぼ同じである
と後にロジャーが述べていました
それでもアルバムのプロデューサーに関しては、「続編」は異なっていました
ロイトーマスベイカーがすべてを
(少なくとも部分的に)
手掛けた4枚のアルバムの後
クイーンの最初の自作アルバムになったのです
1977年にフレディが
少し変化が必要だと感じていた
とサーカス誌に語っていました
そしてこうも
僕たちは
バンド自身でやることにすごく自信があった
・・・もっと責任を持つのは
僕たちにとって良い方向に働くんだ
こちらの記事から多数
お借りしました↓
ハイドパークの後スタジオに戻り
更に数週間かけて
アルバムを完成させます
このためハイドパークのリハーサルは
2日間しかかけられませんでした
ジョンリードとEMIがアルバム発売に合わせて
10月16日にクイーンデーを設けて
ケンプトンパーク競馬場で
こうやってみんな勢揃い
とても嬉しそう
この日のメンバーの皆さん
ジョンとブライアンは
何故か白黒しか見つかりませんでした
※ 画像記事すべてお借りしました
クイーン全曲ガイドによると
通常このようなプレスイベントは
アルバム発売の直前に行われるものだが
レコーディングはまだ終わっていなかった
ロイトーマスベイカーの不在で
それぞれのメンバーが好きなことを言い合い
衝突もし
一触即発になることが何度もあり
アルバム完成まで
5ヶ月近い期間がかかってしまった
とのこと
結局何とか
発売日は12月10日に
英国では大事な
クリスマス商戦に間に合いました
今までアルバムにクレジットされていた
No Synths!
この文字が見れるのも
ついにこのアルバムが最後
そして
このアルバムを引っ提げて
大規模なツアーに突入します
華麗なるレースは
日本でナンバーワンになった
クイーンの唯一のアルバムです
残念ながら
ライブしに
来てはくれませんでした
待ってたのに😭