お越しいただき
ありがとうございます
先日
昔のミュージックライフ(復刻版)を
読んでいたら
こんな記述が
クイーンプロダクションのメンバーは若い
1976年来日の際
ピートは22歳
この時ジョンリードは
26歳だった
!!!!
こうなったらジョンリード氏のことを
掘り下げない訳には行かなくなりました
Wikiなど多数記事よりお借りします
ジョンリード
(1949年9月9日生まれロジャーと同い年!)
元音楽マネージャー
そして
エルトンジョンのマネージャーであり元恋人であり
クイーンのマネージメントしていたことでも知られています
ジョンリードは
スコットランドのレンフルージャーのペイズリーで
溶接工のジョンリードと店員のベティの息子として生まれ
(幼少期にニュージーランドに3年間いたらしい)
彼はペイズリーのギャローヒル地区で育ちました
一応この場所のWikiを貼っておきます
出身の有名人欄にジョンリードって書いてありました
16歳でグラスゴーのストウカレッジに通い
海洋工学を学び
1967年にロンドンに移り住みました
彼はEMIのプロモーターとして
1967年に18歳で音楽管理のキャリアを開始
19歳で英国のタムラモータウンレーベルに入社し
20代でアメリカのタムラモータウンレーベルの
英国マネージャーになりました
モータウンのアーティストが英国市場にリリースする曲を決定した人物で
スモーキーロビンソン&ミラクルズの曲
「Tears of A Clown」をシングルリリースに選んだのは彼でした
この曲探しましたので載せておきますね
1970年に
モータウンのクリスマスパーティーで知り合った
エルトンジョンが
最初のクライアントになった時
彼らはお互いに引っ越し
ビジネス関係だけでなく
ロマンチックな関係も始まりました
1971年
数百ポンドの貯蓄と5000ポンドのローンで
自分の会社を立ち上げました
個人的な関係が続いたのは5年間でしたが
彼は1998年まで
エルトンのマネージャーのままでした
エルトンとの職業上の関係は
会計士のベンジャミンベルによって発見され
デイリーミラーに掲載された
ジョンの支出の不正をリークされた手紙で
終わりました
彼らのビジネス関係の終了は
2000年の訴訟に発展
リードはエルトンに
340万ポンドを支払うことによって和解
リードの会社は
1970年から1998年の間に7300万ポンド以上を稼いだそうです
1974年
ニュージーランドでは広く報道された事件をおこします
パーティーの主催者にシャンパンを投げつけ
オークランドのジャーナリストの女性を殴りました
この事件の詳細
エルトンのレセプションで十分な酒がなかったために給仕の男性にシャンパングラスを投げ
彼を「プーフ(ホモと言う意味らしい)」と呼んだと伝えられている
モデルでもある女性ジャーナリストを殴り
同じ夜遅くナイトクラブで2人目のジャーナリストとの口論になったそうです
その後ニュージーランドで暴行罪で起訴されました
彼は車を待っている間にホテルのドアマンを杖で殴った後
サンフランシスコで逮捕されました
彼は有罪判決を受け
暴行の罪で懲役1か月の刑を言い渡されました
また
エルトンが1984年に
シドニーのレネーテブリューエルと結婚した翌日に
別のジャーナリストを殴打したとされています
彼はこの暴力について語ったことがあります
言い訳はしません
特に誇りに思っているわけではありませんが
このようなことが起こったときはいつでも
エルトンやバーニー(エルトンとの作曲者)擁護してきました
割とすぐ
カッとなる人物だったようです
1975年から1978年の間
リードは
ブリティッシュロックグループのクイーンのマネージャーでした
1975年初頭のクイーンは
2月からのSheer Heart Attack USツアー中
クイーンは何人かのマネージャー候補と面会しますが
なかなかうまくまとまりませんでした
しかしトライデントとの契約解除後のマネジメント探しは急務で
ジムビーチが何人かの人物に声をかけました
ジムビーチが声をかける前からリードの元には
EMIつながりのある人物からマネジメントの打診があり
両者の間で腹のさぐり合いがあったそうです
1975年8月トライデントと契約解除
1975年9月
ジョンリードと3年のマネジメント契約を結ぶ
そして新マネージャーがジョンリードに決まると
1975年9月19日には
新体制のお披露目パーティーがロンドンコロシアムで華々しく開かれる
このパーティーの時と言われるロジャー
元はこの写真で
ジョンリードの部分を切り取っていたらしい
ここからは
10月31日
"Bohemian Rhapsody"のシングル発売
11月21日
"A Night At The Opera"のアルバムリリース
クイーンはあっという間に大スターに!
前に写真を載せたツアー中のニューヨークの食事会
これは1976年初めころ
ジョンリードが手がけた
クイーンとの一番最初の仕事は
トライデントとの違約金10万ポンドをどうするか?
こちらは彼の交渉により
見事EMIからロイヤリティ先払いという形で工面
一番左端はEMIの会長です
ネット記事に
トライデントのノーマンシェフィールド氏
って書かれてあるものがあったので一応訂正します
それぞれのツアーでも
こうやってジョンリードの名前を
クローズアップ!
ところが契約の3年よりも8ヶ月早く
78年1月をもって
ジョンリードとの契約は解消となりました
突然 何故?
一般的に言われるのが
リードのマネジメント体制
エルトンとクイーン二足の草鞋で
しかもエルトンが優先される状況には無理があったと言う説
二足の草鞋をフレディが嫌った証言は
1975年のオペラ座の夜UKツアーに
トニーブレインズビーが
ポールマッカートニーとのツアーに帯同の為
不在にした時にも爆発しているそうです
トニーブレインズビーについてはこちら↓
イギリスのロック広報官という紹介です
この契約解消について
リード本人の語るところによれば
「自分のビジネスライフの中で最も円満な別れ」
だったと
この契約期間を満了しない決裂は下記の代償と
報酬をもって締結しました
3年満了分までの報酬を違約金として支払う
契約期間中発売タイトルの印税15%を支払う
ピートブラウン
ポールプレンター
ゲリースティッケルズの3名を引き抜く
リード氏へ大変な好条件
こんな報酬を払っても
決別したかったなんて
何があったのか知りたくてたまらないというご意見が
あちこちに書かれてありました
(私も知りたい!)
これは時系列は違うけど
華麗なるレースのケンプトンパーク
この話があって
その後の話なのかリード氏との契約解消は
1978年1月
"Spread Your Wings"
"We Will Rock You" のPV撮影中
ロジャーの自宅庭に停められた
フレディの
ロールスロイスの中でサインされます
リードとの契約解消を祝し
後付けでほとんど成り行きで
"We Will Rock You"の撮影が行われた
と書かれてある記事もありました
何故車の中・・・?
という記述も多数
円満契約解消の裏で業界内で囁かれた話を
ノーマンシェフィールドが自著で語っている
と書かれていました
記事をお借りすると
あくまでも聞いたことろによるとの
注意書きがあるそうですが
ロンドン走行中の
フレディとジョンリードが載ったリムジン内で
今後の活動方針について口論になり
手を切りたいなら100万ポンドだ
というジョンの挑発にフレディがのってしまい
すぐさま小切手を書きました
フレディは
すぐさまうせろ!と言ったので
その小切手をもって
ジョンはそこから降りたそうです
BOHEMIAN RHAPSODYの映画での話と
ほぼ
同じだったんですね
※ 記事画像多数お借りしました
めちゃめちゃ長くなったので
比較的最近のことは
次にします
クイーン周辺には
メンバー含めて
ジョンとつく人が多くて
訳を読んでいても混乱してしまいます
次に多いのはジムかな?
まだ続きます