「ウ・ボイ」の旅
【半年ほど前に、友人たちと作る旅行記集に寄稿したものです。写真の処理がわからなくて、縦横の調整ができないまま、お目にかけます。】
1.ミロゴイ墓地
クロアチアの首都ザグレブの北郊外に「ヨーロッパで一番美しい墓地」として 知られる「ミロゴイ墓地」があります。2015年の6月、そこを訪れました。 旧市街のランドマークのひとつ「聖母被昇天大聖堂」のすぐそばのバス停から、 106番のバスに乗って約15分くらい。日本のガイドブックの写真が素敵だっ たので足を伸ばしてみたわけです。 正門をはさんで左右に、かなり高い翼廊があって、右側の内部がアーチ型にな っています。
写真①が正門、②が翼廊のアーチ、③が墓地の風景です。翼廊と平行におそら く1万以上の墓石があると思われます。高い樹木がたくさん植えられた、広い広 い墓地でした。
①ミロゴイ墓地正門
②翼廊アーチ
③木立の中のお墓
正門の傍らに案内板があって、墓地区画の番号が表示してあります。案内板の 右端に、この墓地に埋葬されたクロアチアの有名人たちと思しい50人ほどの名前と区画番号が示してありました。順番に見ていっても、知っているクロアチア 人はアリダ・ヴァッリくらいなので、どの名前にも覚えがありません。ところが なんと、最後のほうに、IVAN ZAJC(イヴァン・ザイツ)という名前があるで はないか。
クロアチアに行ってみたいと、しばらく前から考えていました。2006年に 亡くなった、イタリアの女優アリダ・ヴァッリが好きで、この女優の生まれ故郷 がクロアチアだということは知っていましたから、そこへ行けば、似た人を見つ けられるのではあるまいか、と、ジイサンの好奇心丸出しの不純な動機からです。 『第三の男』(英語)、『かくも長き不在』(フランス語)、『夏の嵐』(イタリア語) など、たくさんの名作に出た人です。残念ながら、ザグレブでもドゥブロヴニク でも、アリダさんに似た人には会わなかったけれど。
イヴァン・ザイツは、1832年生まれのクロアチアの作曲家。ミラノのコン セルヴァトワールで勉強したのち、母国の首都ザグレブに戻って、その後40年 にわたって、音楽界に君臨した人だそうです。1914年に82歳で亡くなった。 一族はスロヴァキアからの移民で、父親はチェコ系、母親はドイツ系だという。 バルカン半島は、どこの国にも、こういう複雑な民族系統を持つ家族が多いよう です。 ザイツが45歳のとき、彼の代表作となる歌劇『ニコラ・シュビチ・ズリンス キー』を作曲しました。クロアチアの救国の英雄ズリンスキーを主題にした作品 です。これの終曲で「ウ・ボイ」という勇壮な男声合唱曲が歌われます。「ウ・ボ イ」そのものは、歌劇の10年前、愛国歌として作曲されたもので、いわば転用 のかたちで取り込まれました。
「ウ」は「~へ」、「ボイ」は「戦い」ですから、「戦いへ」という意味になりま す。「突撃!」という訳語がふさわしい、と言う人もいます。歌詞全体が、兵士を 鼓舞するための激しい言葉に満ちています。最後は「敵に向かえ! 彼らに必ず 死を報いよう!」とフォルティッシモで歌われる。
クロアチアはサッカーの強い国として有名ですが、応援歌としてこの歌を歌う と、サポーターが殺気立つので、しばらくは禁止されていたそうです。ドゥブロ ヴニクで泊ったホテルのペリツァさんが教えてくれました。
2.ザグレブ市内
2015年8月29日にめぐろパーシモンホールで、アカデミカコール【私の所属する合唱団】の演奏 会が行われました。全4ステージの第3ステージが、5曲から成る「愛唱曲集」 というものでした。その終曲が「ウ・ボイ」です。指揮者はKKさん。3月 頃だったか、練習中に「今度6月初めにクロアチアを旅行する」とKKさんに言 ったら、「『ウ・ボイ』の歌詞をだれかに読んでもらって録音してきてください」 と要請されました。
「よしきた」と請け合って、まず、クロアチア語の歌詞をネットで見つけてプ リント。アカデミカコールのホームページ、関西学院グリークラブのホームペー ジ、ウィキペディア(日本語、英語、クロアチア語)などです。ただ、綴りが少 しずつ違うので、結局は、自分でワードで打ち直したものを用意して持っていき ました。 ここになぜ関西学院が出てくるかというと、「ウ・ボイ」が日本の男声合唱団で 歌われるようになったのは、関学グリーが最初だからです。今でも、このグリー クラブの演奏会のアンコール曲は「ウ・ボイ」だと聞いたことがあります。どの ようにして日本で歌われるに至ったかについては、心に沁みる物語がありますが、 ここでは省略します。
ザグレブには6月3日に到着しました。ヨーロッパの都市にはよくある、トラ ムで市内を移動します。車道・歩道と同じ路面を走るこのトラムのスピードがお そろしく速い。怖いくらいでした。
6月4日にミロゴイ墓地に行きました。墓地区画の案内板にイヴァン・ザイツ の名前を見つけたとさっき書きましたが、親族のお墓参りに来たらしい家族が同 じ案内板を覗いていましたから、「ウ・ボイ」のプリントを見せながら、
♪ウボイ ウボイ マッチェズ トカ ブラッチョ ネク ドゥシュマン ズナ カコ ムレモ ミ♪
と口ずさんでみました。40代くらいに見える兄弟が「知ってる知ってる」とい う表情をして、なんと「パーフェクト」と英語で言ってくれたのです(エヘン)。
このご兄弟が、「ザイツのお墓はここ」と区画を教えてくれたあたりを探したも のの、なかなか見つけられません。半ばあきらめて出口に戻りながら、翼廊の壁 に貼り付けた墓碑を順に見ていったら、さっき通り過ぎた場所にあったのでした。 写真④がザイツの墓碑(同姓の名前がいくつか彫ってあったから、おそらくはザ イツ家のそれ)で、⑤はその前に立つヤマトからの客。
ついでにザグレブ旧市街の二つのランドマークのうち、⑥が「聖マルコ教会」、【「聖母被昇天大聖堂」は写真の取り込みに失敗:9月11日】。
3.「ウ・ボイ」の朗読を録音
私のICレコーダーは、オリンパスの Voice-Trek V-85 というもので、内蔵 マイクの性能がすぐれているので重宝しています。「ウ・ボイ」録音という使命が あるので、ホテルでの充電も抜かりはなかったのです。さて、どなたに朗読をお 願いしたものか、まっさきに頭に浮かんだのは、ホテル「クロアチア」のフロン トでわれわれを迎えてくれた、イヴァンナさんという美人です。ちょうど、午前 の担当だったのかフロントに座っていて、お客も来ない時間のようだったので、 おそるおそる「これ読んでいただけませんか」と英語でお願いしてみました。「こ の歌詞なら男の人に読んでもらったほうがいいのでは」とおっしゃるのを、「い や、あなたに読んでもらいたいのです」と一押ししたら、「やってみましょう」と 言ってくれました。読み終えたイヴァンナさんは、“I like it!”(おもしろい!) とひとこと。
お礼を言って、部屋に帰り、再生ボタンを押したらなんたることか、「録音され ていなかったのですよ、奥さん!」(と言いたくなる)
目の前の美人に目を奪われて(これは本当、すこぶるつきの美しさでした)操 作を間違えたらしいのです。ふたたびフロントへ行って、拝み倒すような気持ち でもう一度読んでもらいました。結果を言えば、これも録音されていませんでし た。イヤホン・ジャックをマイク・ジャックに差し込んで「録音」ボタンを押し ていたのでした。いい歳をしてこんな粗忽をしでかすとは、と、恥ずかしさのあ まり「舌噛んで死んじゃいたい」と思いましたね。ウソです。
別の人を探さなきゃなりません。その日は飛行機に乗るためにザグレブ空港へ 行くことになっていました。行く先のドゥブロヴニクもクロアチア語だから、ま あどなたか見つけられるだろう、と、楽観してはいました。
空港での待ち時間が2時間ほどありましたから、乗客を誘導する係のお兄さん にお願いしてみることにしました。ペタル・ミロシェヴィッチという名前のその 男性は、プリントを見るなり、♪ウボイ ウボイ♪と歌いだすではありませんか。 「そうじゃない、朗読してください」と申し上げて、今度はちゃんと録音ができ ました。発着便の案内アナウンスが入ったりする、へんちくりんな録音です。ペ タルさんは、くしくも合唱団の団員で、「今度の日曜日に演奏会があるんだ」とお っしゃっていました。道理で、いい声で歌いだしたわけだと思ったことでした。
調子に乗って、もうひとり、ベンチで警察官といっしょにタバコを吸っていた、 空港職員のユニフォーム姿のおばさんにもお願いしました。スニェジャーナとい うお名前でした。
さらに、ドゥブロヴニクで泊ったホテル「ザグレブ」(ザグレブのホテルが「ク ロアチア」で、ドゥブロヴニクがこの名前)の、食堂のシェフ(だと思う)ペリ ツァさん(男性)にも読んでもらいました。
録音した3本の音源を、ドロップボックスというサイトに格納し、日本のKK さんに「お好きなものをお使いください」とメールを出しました。すかさずKNさん(アカデミカコールの音源などを編集してくださるコンピュータのスペシャリ スト)から連絡があって、ダウンロードできたということでした。おまけに、元 N響の首席トランペッター北村源三という方のハンガリアンメロディーの音源 をプレゼントしてくれました。《燦々と降り注ぐ陽光のもとで聞く短調のメロデ ィーが心地よいです》とお返事を出しました。便利な時代になったものですねえ。
「これにてミッションは終わり」、ということになりました。 このあと、ドゥブロヴニクからヘルシンキに飛んでそこに一泊し、列車でサン クトペテルブルクへ行き、三泊して同じ線路を通ってヘルシンキに戻り、フィン エアに乗って成田に帰ってきました。