カメラは目の延長ではなかった | パパ・パパゲーノ

カメラは目の延長ではなかった

自分で撮影した写真が気に入ったことは数えるほどしかありません。偶然に加勢してもらって、やっとバランスのいい「良い絵」が撮れた、という程度です。要するにセンスがない。


友人が撮影した、ため息が出るほど素敵な写真を見ていて思い当たったことがあります。被写体を選んだ段階で、それをどういう構図に置くか、が決まっているようなのです。フレームがまず意識されているらしい。そんなの当たり前ではないか、と言われそうですが、いま気が付いたんだから仕方がない。


前のブログで、ブラチスラバの風景写真を出して、「写真では実際に見た感激が薄まっている」と書いたのですが、感激のほうは、いわば視界180度から来たものだったのに対して、写真が切り取った空間はせいぜい90度ほどだったのですから、「薄まる」もなにも、比較自体が意味をなさないものでした。広角レンズで撮ればよかった、という問題でもなさそうです。


「わ、きれいだ、写真に撮っておこう」という感覚自体は、普通に持っているつもりですが、カメラを目の延長線上にあるものと見なして、脳内映像を画面に定着させようとしていた、そのことがどうやら間違いらしい。


そうではなくて、被写体が「こう撮られたい」と望んでいるのを汲んで、被写体(人でも花でも景色でも)の発するメッセージを捉えると良い写真が撮れるのではないか。むろん技術的なこともないがしろにはできませんが、これまで見よう見真似でカメラを扱ってきただけだったのを反省して、これからは少し自覚的に写真を撮ろうと思った次第です。いきなりうまくなるはずもありませんけれど。


これがその写真。おゆるしを得て掲載します。



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