「観光客ら」?  | パパ・パパゲーノ

「観光客ら」? 

 ニュースを聞いていたら、「観光客ら」という言葉が出てきました。「紅葉を楽しんでいた」だったか、「土地の名物をふるまわれた」のだったか、内容は忘れました。同じ番組の別のニュースでは「子供たち」というのが出てきた。


 複数の人物をあらわす場合につく接尾語は、古語では「ら、ども、たち」で、万葉の昔から使われているようです。


 をとめが 春菜摘ますと
 夏草や つはものどもがゆめの跡
 道の神たち


 《ら<ども<たち》の順に丁寧さの度が上がっていく。これは現代語も踏襲しています。目上の人に「ら」が付くことは普通ありえないことです。「職員室の先生はテストの採点に忙しそうだった」とは言いません。「この学校の先生、なに考えてんだか」のように、非難を込める場合などに「ら」が使われる。


 今では、「うちの子どもたち」のように、身内にも「たち」を使うし、「草原の馬たち」「秋の草花たち」のように、人以外にも、「雲たち」「機関車たち」のように、無生物にも使われるようになりました。「たち」がニュートラルな複数形語尾になったということです。


 「あいつ・てめえ」というように、「ら」には、「他人を見下す」語感が残っています。だから、「観光客ら」という言い方には違和感を覚えます。


 は みんな生きている
 おそるべき君の乳房 夏来たる


の「ら」には、それがありません。「僕ら」の「ら」は謙遜、「君ら」の「ら」は「子らを思う歌」の「ら」と同じく親しみを、それぞれ表現しているからだ、と説明できます。


 「観光客」には無理に複数語尾を付けなくても、複数であることは明らかです。「観光客ら」は、(とくに最近)よく耳にします。これは、新聞の影響だろうと感じています。新聞は、文字数の制限があって、同じ意味なら字数の少ないほうを選ぶようですが、「各国首脳ら」とか「傍聴人ら」とか表記するのは、見苦しくて私は嫌いです。別のところで、いくらでも工夫できそうなものです。


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