ピアノを弾くニーチェ
木田元先生は、もうすぐ81歳になるそうです。去年も新書を2冊もお出しになって、相変わらず元気な方だと思っていましたが、つい最近出版された『ピアノを弾くニーチェ』(新書館)の「あとがき」に、2005年に胃がんの手術をなさって、予後が悪くて大変だった、と書いてありました。そう言えば、『哲学は人生の役に立つのか』(PHP新書)にも、そのことに触れた文章があったのを思い出しました。
3年ほど前から、ふたたび旺盛な執筆活動を再開し、それをまとめたのが今度の本です。「読書余滴」「読書雑記」という二つの章(残る一つは『日本経済新聞』に寄せた「明日への話題」)が示すように、本をめぐる話題が中心です。ご専門の哲学の話も多いけれど、なにしろ、守備範囲が段違いに広い先生なので、私などが今まで触れたことのない分野の話が次々に繰り出され、目を見張る思いで読みました。
「俳諧小説の楽しさ」という一編がなかんずく興味深かった。別所真紀子という、ご自身も連句の雑誌を主宰する方の俳諧小説集を紹介しています。「連歌」という数人で作る俳諧のジャンルがありますが、その形式を短い文章で説明する、木田先生の手際のあざやかなことといったらありません。
「当時としてはそれほど珍しいことではなかったのだろうが、芭蕉には衆道(しゅどう)の好みがあり、尾張の弟子のなかでも杜國(とこく)や越人(えつじん)のような美青年たちを熱愛したらしい」という一節が出てきます。衆道というのは、今で言う「ホモ・セクシュアル」でしょうが、芭蕉には一時期同棲していた婚約者もいたということですから、「好みがあり」という用語の選択がたくみです。これを読んで、長年疑問に思っていたことが解けたような気がしています。芭蕉の『奥の細道』を通読したときに、随行した門弟、曽良(そら)と、近江かどこかで別れて、別行動をとることになったときの文章が妙に感情的なところがあって、この二人はただの師弟関係ではなさそうだ、と感じたものでした。妙にドキドキしたのを覚えていますが、たしかに「当時としてはそれほど珍しいことではなかった」のですね。
表題に取られた、「ニーチェのピアノ」のエピソードは、わずか700字の短文のタイトルですが、精神を病んで55歳で亡くなった大哲学者の晩年を一筆書きにした珠玉の文章です。ご一読をおすすめします。
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