反音楽史
音楽評論家・石井宏に『反音楽史:さらば、ベートーヴェン』(新潮社)という面白い本があります。学校の音楽教室には、壁に横長の掛図が貼ってあって、右から順に、バッハ、ヘンデル、ハイドン、モーツァルトと並んでいました。みんな18世紀時代のかつらをつけて、少し横向きの顔。これを見ると、西洋音楽はまるでバッハから始まっているように感じられます。じっさい音楽室で聞いた音楽は、せいぜい遡ってもバッハくらいだったでしょう。管弦楽組曲とか、オルガン曲とか、無伴奏チェロ・ソナタとか。
この掛図が、いかに音楽理解を妨げてきたか、ということを口をきわめて、まあ、ののしっている本でした。ドイツ音楽が唯一の正統派であるかのような、偏ったイデオロギーに毒された音楽史が長く支配的であった。そうではいけない、ということで、ドイツ音楽の代表選手としてベートーヴェンの名をあげ(これは大抵の人は文句がないところ)、それに「さらば」を言おうと提案するものです。
音楽の都と言えば、今ではもっぱらウィーンを指します。それにも異論のある人は少ないでしょう。しかし、バッハ以前、音楽の都は、イタリアのヴェニスだったのだそうです。この件はあるいは、岡田暁生さんの本で得た知識かもしれません。たしかに、ドイツの作曲家たちが活躍する前は、イタリア人の名前がもっぱらでした。順不同に、モンテヴェルディ、スカルラッティ、ペルゴレージ、ケルビーニ、ヴィヴァルディなどなど。『アマデウス』でいちやく名前が残ることになったサリエリもイタリア人でした。
フランスにも、ドイツ古典派以前からいろいろな音楽家が登場していたことが書かれてあったと思います。
石井宏先生は、モーツァルトについて何冊も本を著した方ですから、もちろん、ドイツ音楽も嫌いなはずがありません。もっと広く音楽の歴史を知ろう、面白い作品は、ベートーヴェン周辺だけにあるのではないよ、と啓蒙してくださった。この著作で山本七平賞を受けたそうです。
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