番茶問題 | パパ・パパゲーノ

番茶問題

 平松洋子『おとなの味』(平凡社)を読んでいたら、「梅干番茶」というものが出てきました。作者が子どもの頃、大人たちが湯のみの番茶に梅干を放り込み、両手で持ちながらさもおいしそうにすするのを見て、早く大人になってあれをやってみたいと思ったのだそうです。


 自分でできるようになってから、熱々の番茶あるいは煎茶に、梅干を入れて、ふーふー冷まして、まず香りを楽しみながら口に含み、梅干がほとびるころに箸でかきまぜて、果肉と皮とがビラビラになったのを啜りこむのが、なんとも言えずおいしい、と、すぐにもやってみたくなるような筆さばきで書いています。


 さて、ここで言う番茶は、「ほうじ茶」であるのかないのか、それが悩ましいところです。ふつう辞書では(辞書の記述は東京方言が主となる)、まず例外なく、「番茶:二番茶以降の緑茶、品質は煎茶に劣る」と書かれてあります。上等が「玉露」で、中等が「煎茶」、下等が「番茶」という説明です。


 ところが、北海道や東北、北陸地方では、「ほうじ茶」のことを「番茶」と呼ぶことが多い。これはウィキペディアにもあります。私も秋田の生まれなので、「番茶」と言えば、まっすぐ「ほうじ茶」を指しました。普通の家庭で飲む「ほうじ茶」は、二番茶以降の、「品質の劣る」茶葉を焙じて(炒って水分を飛ばす)作ったものだったでしょうから、同じ名前で呼ぶことになるのは自然な成り行きというものです。


 そこで、さきほどの「梅干番茶」です。これは、お茶の苦味が残る「煎茶」系よりも、さっぱりした「ほうじ茶」のほうが旨いような気がするのです。今でもときどきやりますが、子どものころ、ごはんが終わったら、茶碗に白湯をそそぎ、それに梅干(カリカリの梅漬けでしたが)のミジン切りにしたのを入れて飲んだものでした。口がさっぱりするのと、おそらく一種の整腸剤の役目も果たしたものだろうと思います。その記憶があるものだから、「梅干番茶」の「番茶」は「ほうじ茶」であろうと、想像するのですが、煎茶でもやる、と書いてあるので、平松さんのおっしゃる番茶は、「煎茶ほど上等ではない」という意味かもしれません。


お茶        お茶        お茶        お茶        お茶