護持院ヶ原
昨日の日記に書いた『天下之記者』のなかに、大学南校(開成学校改め)というのが出てきます。その学校の所在地の名前が「護持院ヶ原(ごじいんがはら)」となっていて、「いま如水会館や共立女子学園のあるあたり」と説明されていました。
私が36年勤めた会社のすぐそばのことでした。さらに近くの事務所に、今でも、通っています。因縁浅からぬ地名なのに、そう呼ばれるとは知らなかった。
護持院という真言宗のお寺がこのあたりにあって、1717年に焼けてからは、神田の火事が江戸城に及ぶのを防ぐために、広大な火除け地として残り、「護持院ヶ原」と呼ばれることになったのだそうです。江戸時代の『江戸名所図会』という絵図では「二番原・三番原・四番原」の字が見えますから、おそらく、一から四まで番号のついた原っぱであったようです。
森鴎外に「護持院原の敵討」 という作品があります。リンク先へ跳ぶと全文を読むことができます。
金庫番の年寄りが何者かに斬りつけられて、ほどなく死んでしまう。あだ討ちをしてくれ、と遺言を残します。どこに逃げたか分からない下手人を探して、大阪、四国など西の国々をめぐり、ついに江戸で見つけて、最後は、この護持院原で仕とめる、という話でした。まあ、血湧き肉踊るようなお話でもありません。
お上に届ける手続きが煩瑣な上に、四年もかけて探すうちに、くたびれてもきます。家名というプライドを守るのも大仕事だったのだなあ、という感想です。
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