語学の達人
司馬遼太郎の『胡蝶の夢』(新潮文庫)は、佐渡生まれの伊之助という特異な少年が、松本良順(順天堂病院の開祖)の召使いになるところから始まっていた記憶があります。
特異というのは、伊之助の人交わりのぎこちなさから来るものです。見合いの話もよく分からない理由で、断ってしまうのだったか、断られたのだったか。
司馬遼太郎描くところの伊之助の魅力、あるいは本領と言うべきものは、その耳の良さです。良順に従っておもむいた長崎でポンペの弟子になるのですが、たちまちオランダ語をマスターしてしまう。ポンペ自身はたしかドイツ人です。外国語としてオランダ語を話していたのでしょうね。
伊之助は、オランダ語ばかりではなくて、小耳にしたドイツ語も英語も、すぐに覚えてしまいます。江戸時代後期から明治にかけて、西洋の学問の旺盛な輸入がおこりますが、それには、こういう異能の達人がどんなにか役にたったことでしょう。
絶対音感 の持ち主にも、外国語をすぐに耳から覚えてしまう人が多いようです。
音感の有無にかかわりなく、苦もなく外国語をマスターしてしまう人がいます。うらやましくて仕方がない。知り合いにも達人がひとりいます。彼女は、状況から外国語を覚えるのだと言ってました。厄介な音が多い言葉や、日本語にはない性質(たとえば中国語の四声など)を持つ言葉も、耳から覚えてしまうのですから、これは才能だと思います。その才のないものとしては、指をくわえて見ているほかありません。