博弈なるものあらずや
この前の土曜日、駅前のパチンコ屋にふらっと入って、「うる星やつら」という台の並んだところへ、あてずっぽうに座りました。1000円を左上の隙間に差し込んで、手もとの「貸玉」のボタンを押すと、ジャラジャラ玉が落ちてきます。はじいているうちにどんどん玉が少なくなっていきました。
手もとのパチンコ玉がなくなって、やっぱりダメかと、帰りかけたのですが、妙にチカチカ光っています。おお、まだ500円分の玉が残っていたのを、はじき出しました。一番底の、跳ねブタみたいのが、しばらく開いたままになった。さあ、興奮を極力抑えながら、はじき続けること30分たらずだったでしょうか。
長細い舟形の入れ物に、玉を落として貯め、ひとつが一杯になり、二つ目、三つ目が一杯になったあたりで、初心者のオビエが走りました。ここらでやめとかないと、みんなまた吸い取られてしまうのではないだろうか。
根は小心でケチですから、そこでさらに攻めるのをやめて、計量機に持っていきました。帰りは、大漁旗を自転車に掲げようかと思ったくらいでした。2年に1回あるかないかの僥倖です。と言っても、1年にパチンコ屋に入るのは、多くても7、8回というところです。
『論語』に、「飽食終日、心を用うるところなきは難いかな。博弈なるものあらずや。これをなすは、なお已むにまされり」というのがあるそうです。「たらふく食うだけで頭も気も使わないのはだめだ。バクチというものがあるではないか。それのほうが、何もしないよりましだ」というほどの意味のようです。
この「博弈」(ばくえき・はくえき)は、いわゆるバクチ(賭け事)ではなくて、碁・将棋のたぐいであると、注釈書を見たら書いてありました。なあに、賭け碁・賭け将棋というのは、ごく普通に行われていることです。孔子さまのころだってやっていたに違いないのです。
たまに勝ったもんだから、ちょっと威勢よくゴタクを並べてみました。