家の裏の小川
藤沢周平の数多い傑作の中でも、多くの読者がイチ押しに押すのが『蝉しぐれ』(文春文庫)です。
山形の架空の藩、海坂(うなさか)藩が舞台。主人公は牧文四郎。養父の牧助左衛門が、藩の内紛に巻き込まれて切腹を命ぜられ、家禄を没収されます。牧家を継いだ文四郎が、剣術の腕を上げながら成長していく過程をつぶさに描いて間然するところのない傑作でした。ドイツ語でいうビルドゥングス・ロマーン(成長物語)の典型的な例でしょう。
市川染五郎主演でおととし映画にもなったようです。見ていませんが。
物語冒頭、隣りに住むおふくという娘が、虫に刺されるだか、小蛇に噛まれるだかして、叫び声を上げるシーンがあります。家の裏を小川が流れていて、体を洗うためにだったか、家の裏に出たところで叫び声を聞いたのでしたか。アイマイな記憶で恐縮ですが、大筋はこの通りです。噛まれたおふくさんの手をとって、毒を吸い出してやるのですね。このとき文四郎15歳。ふくは10歳くらいか。かすかなエロティシズムが香って印象的な出だしでした。後半のドラマの伏線にもなっています。
この、おふくが、殿様の目にとまって、江戸藩邸に伺候することになります。「おふくさま」になってしまう。
切腹した養父を引き取りに、藩邸におもむき、大八車の上の戸板になきがらを載せて自宅に帰ってくる。暑い暑い夏の日です。たしか、そのときに、降るような蝉の鳴き声が聞こえてくるのでした。
家の裏を流れる小川で、大根や芋を洗ったり、洗濯をしたり、足を洗ったり、というのは、私の子どものころでもよく見かける光景でした。藤沢作品がいつもある「なつかしさ」を感じさせるのは、共通するふるさとの光景ということもあるかも知れません。
高浜虚子の俳句、
流れゆく 大根の葉の 早さかな
を読んだときに、すぐに頭に浮かんだのは、裏の小川の水の冷たさでした。