書き出しの文章
文章家はみな書き出しの一文を工夫しているようです。有名なもの。
木曽路はすべて山の中である。(藤村『夜明け前』)
山椒魚は悲しんだ。(井伏鱒二『山椒魚』)
メロスは激怒した。(太宰治『走れメロス』)
国の守は狩を好んだ。(石川淳『紫苑物語』)
以上は、ほぼ似たような書き出しで、雄勁な表現をこころがけた結果でしょうか。太宰のものは、井伏を意識していたと思います。
珍しい例。
住まいのことでは私も一時難儀した。(永井龍男、エッセイの冒頭)
これは、戦後、家で苦労した人にはたちどころに何かが伝わる書き出しのようです。山口瞳がこの一文を激賞しました。おそらく、永井のこれをアタマにおいて、小林秀雄の追悼号に谷沢永一先生は、こう書きました。
小林秀雄には私も難儀した。
これも、小林秀雄と格闘したことのある人ならすぐ分かる。
外国文学(翻訳)の書き出しで印象的だったのはこれ。
幸福な家庭は互いに似通っているが、不幸な家庭はとりどりに不幸である。オブロンスキー家ではなにもかもがめちゃくちゃだった。(トルストイ『アンナ・カレーニナ』、おそらく米川正夫訳。記憶にたよっています。)
現代日本文学の中でもっとも有名な書き出しということなら、下の二つでしょうね。
国境の長いトンネルを抜けると雪国だつた。夜の底が白くなつた。(川端康成『雪国』)
我輩は猫である。名前はまだない。(漱石『我輩は猫である』)
しかし、書き出しの豪華絢爛は、なんと言っても古典文学です。教室で暗記させられるということもあるかも知れませんが、調子のよさはなんともいえない。忘れないように書き残しておきます。
月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人なり。(『おくのほそ道』)
いづれの御時にか。女御・更衣あまたさぶらひ給ひけるなかに、いと、やむごとなき際にはあらぬが、すぐれてときめき給ふありけり。(『源氏物語』)
祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり。(『平家物語』)
ゆく河の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例なし。(『方丈記』)
つれづれなるままに日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。(『徒然草』)
春はあけぼの。やうやう白くなりゆく。山ぎはすこし明りて 紫立ちたる雲の細くたなびきたる。(『枕草子』)