ゆっくり考えてみました・・・
いつもいつも教会の話になって、恐縮ですが。
教会で起きたこともここまでくると、元凶をはっきりさせるべきだと思うのです。
問題の発端となったのは、このブログです。
先日に続いて、私が自分でコピペいたします。
凍りつくような朝、新年最初の礼拝がありました。
説教題は「世界は誰のものか」。
この世界をつくられた神は、そこに一人子を、愛する私たちのために贈られました。
しかし、その一人子イエス・キリストを、私たちが十字架につけてしまいました。
神にとってそれは、大きな裏切りです。
神は私たちに裏切られながらも、なお私たちを愛してくださるのです。
教会に通っていれば、よく耳にするところですが・・・
以前、私は耳のご不自由な方にずっと付き添って、俳句の筆記をしていました。
けれどその方は、俳句の筆記をしたことのないAさんに筆記をしていただいていると、吹聴しておられました。
その理由は、不明です。
いま、彼女の嘘が実現して、Aさんが俳句の筆記しておられます。
神さま、私も裏切られました。
私は体の具合がわるいときも、彼女のため、神からいただいた奉仕だと思ってやってきました。
でも、奉仕は自分を犠牲にしてまでするものではない・・・これはあまりにもショッキングなことで、牧師先生にもお話ししました。
今日の説教は、それも踏まえてのものだったのでしょう。
私は神ではありませんから、彼女を赦すことが困難です。
でも、神は私の思いをご存知なのですね。
説教の後、聖餐式が執行され、私の取ろうとしたパンがうまく切れていませんでした。
「そのまま、ふたつどうぞ」長老に言われ、私はパンを二切れいただきました。
それは、「私はわかっているよ」という、神からのメッセージのように思われました。
我らに罪を犯した者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。(「主の祈り」より)
(2018年1月8日 文=マリ)
当然のことですが、このブログも世間の例外ではなく、人名その他一切の固有名詞はありません。
そしてこの文の赤字部分について
・先ず、ここに書かれていることは事実です。
・次に「耳のご不自由な方」は、この長さの文章も読む力がありません。
失聴してから半世紀の間、頭も使わず、家のことも何もせずに生きてこられました。
完全失聴者でありながら、手話もできません。
どうしてそのような人が俳句を?と、疑問に思われるでしょう。
教会でみなさんのかばい方は、ただならぬものでした。
頭のいいひと、実力のあるひと・・・
彼女の出自の良さでしょうか、一様にこのようないい加減なことを口にしておられ、教会生活の浅い私たちはまんまと騙されて俳句にお誘いしました。
話を元に戻しましょう。
彼女にはこの文章を理解することもできませんし、最初から読んでいって赤字部分にたどり着くことも不可能です。
また、赤字部分のみを読んで理解することも難しい。
・そして、彼女はパソコンもスマホも使えないばかりか、コピーをとることもできません。
ですからおそらく、誰かが指さして、「ほら、ここにあなたのことを耳が聴こえないと、ひどいことを書いてあるでしょう」と、コピーを渡してばら撒くように指示したものと思われます。
彼女は、身体障害者の1級の手帳を20歳ぐらいの時に取得しておられます。
私はそれを2度見ました。
しかし彼女も彼女のご家族も、それを隠しておられます。
単なる難聴を装って、白い杖も持たないで交通量の多い通りを一人で歩いています。
その彼女を、「耳が聴こえない」と書かれているの一言をもって逆上させることは簡単です。
自分の失態が書かれていてもまともに確認もできず、コピーをばら撒く行為は、まさしく恥の上塗り!
「私のことを耳が聴こえないとブログに書いた!」と、大声で叫びながらコピーをばら撒くのです。
私自身、彼女のことは顔もみたくない思いですが、こんなかわいそうなことをさせてはいけないでしょう。
こんな卑怯なやり方で教会を混乱させ、私を追い詰めようとした方がおられるのです。
そして、またやりましたね。彼女にコピーを渡しましたね。
彼女は正義感をふりかざす思いで、大暴れしながら話してくれました。
私を追い詰めたいのなら正々堂々とかかってきなさい!