ブログというものは、一人称視点で描かれたノンフィクションの文章作品である。異論はあるかもしれないが、そのような大前提のもと話を聞いてほしい。
一人称視点というものは主人公の感情論が露わにされた文章であって、その文章は極めて主観的で一方的なものである。従って、そこに描かれる登場人物がいかにいい奴であろうとも悪い奴であろうとも主人公の気持ち次第で事実も捻じ曲げられてしまうのである。
そしてブログに登場する人物というものは実在する人物であることが多く、実在する人物にはプライベートが存在し、勝手に侵害することは違法である。
だから私は多くの記事を書くにあたって大抵はあまり他の登場人物は出さず自分のことのみを書くようにしている。だがしかし今回ばかりは特定の人物のことを書かせてほしい。
4日たった今でも、許しがたい。つまり私は今、怒っているのだ。
金曜日。私は今お付き合いしている方と不動産に行った。その店は私の友人が勤めている職場であり、友人紹介の特典を使って安く家をさがしてもらおうという魂胆であった。
私たちの希望する条件のもといくつかの家をピックアップしていただく。間取りを見て、写真を見て、私は自分が居住することを想像しながらいくつかの候補に絞っていく。
私の提示する条件は我が儘で、家は自然と絞れていった。最終的に残った2つの物件は同じ建物の2部屋であって、ならば見に行こうかという話になったのだ。
車を出してもらい渋滞する道路にのろのろと車を走らせながら、私は友人と最近はどうなのかという世間話を始める。結婚適齢期となった私たちは会話の方面も自然とそちらに移っていって「年をとったな」と苦笑しあった。同じ会社で働いていた私と友人はやはり飲食の話に花を咲かせるのであった。話はきれいに花咲いて、楽しい時間を過ごした。
家につき、大家さんの手で鍵を開けて頂いた。部屋を見て、ますます私はここに住みたいという意欲を膨らませて、そうして部屋を後にした。大家さんには「いい人そうだから住みたいなら早めに言ってね」とありがたい言葉を頂戴したのであった。
早めに言っての締め切りを次の日に設定し、その日は美味しいちゃんこ鍋を食べながら軽い祝会をおこなった。
だいぶ端折ったが、それが3日前の話だ。
その日、彼氏は携帯をなくしたかもしれないと言っていた。体調も芳しくないとも言っていた。だがしかし次の日には返事をすると約束して3日がたった。今も、連絡は来ない。
感情というものは何もいきなり爆発するものではないだろう。何かのきっかけがあり、沸々と湧き上がるように感情が育っていく。今回の場合は怒りだ。「なんで連絡がないの?」「今日中に連絡するって言ったよね?」「あなたにとってはその程度の優先順位なの?」
人生は長い。体調が悪い日も、ものを失くす日もあるだろう。たまたまそれが大事な決断の瞬間に重なっただけ。私は温和でいようとした。相手の言い分も聞かないうちに勝手に怒りを育てていても虚しいじゃないかと自分を説得しようとした。
でも、だ。我慢というものには限界がある。私はそれをポケモンのゲームで学んだのだ。「いかりのボルテージがあがっていく」怒りは、爆発するのだ。
現代人よ。連絡手段は携帯電話に限るのか?
自分が携帯を失くした。携帯電話を買いに行く時間がない。それでも誰か特定の相手に連絡する手段はあるだろう。最近話題になった夢の空飛ぶ配達人、鳥による配達が可能にという話をしているのではない。直接会いに行くという江戸時代の話をしているのでもない。電話をしようという我々の子供時代の話をしているのでもない。「もしもし、○○さんのお宅ですか? ○○ちゃんはいらっしゃいますか?」
郵便、電子メール、その場で連絡を取り合う手段もある。誰かの手を介して連絡する方法もある。つまり手段は十とある。
だが、しかし連絡はないのである。
もしかしたら今流行のインフルエンザかもしれない。それでも連絡する手段はゼロではない。なぜなら現代は発展しているのだ。
そうなってくればやはり連絡してこない人物の怠惰を疑うしかないであろう。私にとって大事な決断であることが、当人にとってはそうでもない。価値観の不一致。
私は怒る資格があるのでないか? 我慢する必要はないのではないだろうか。なぜならそうやってお互いの気持ちを理解しようと努めることがコミュニケーションであって、その結果特別な個として認識してお付き合いに至っている訳なのだから、私は怒ってもいいのではなかろうかと思い当たったのだ。
ムカつく。イラつく。激おこ。
怒りを表現する言葉は時代によって流行はあるけれど、この際どれだっていい。たいへん腹立たしい。遺憾である。
いつまで私の怒りは放置されるのか。こうなったら見ものである。
怒れる獅子を呼び覚ませ。彼はその原因を作り出したのである。ふん、だ。