教育の目的① 〜歴史篇〜

今回は教育についての持論を何回かに渡って展開しようと思う、わけ、で、あります。学生時代に抱えていた鬱憤を、これを読んで少しでも納得して鎮めていただけたら幸いである。今回は1回目として、科目の中でも軽視されがちな歴史について、私の考えを述べていきたい。

率直な話、かなり多くの人が社会科目を軽視しがちであろう。「覚えて何になる」「暗記ゲー」など社会科目を本来の学ぶ意義・目的が損なわれているからこそ、あなたたちの脳内でこのような結論に至ってしまったわけである。

とりわけ、「歴史」という科目は覚えることが多く、ましてや難しい漢字表記であったり、読みにくいカタカナ表記であったり、覚える徒労にさぞ学生生活を苦しめられたであろう。大きく分けても人類が文明を築いた古代史、人間生活が豊かになった中世史、戦争を覚え平和を誓った近現代史と、学ぶカテゴリーが多いのが特徴である。また、「歴史」という括りをするのであれば世界史・日本史と上記の区分を×2する内容を学んでいたわけである。この大量の知識を頭に詰め込むのは、非常に骨が折れる(実際に折れるというわけではないが、比喩として骨が折れるほどの苦労を積んだという意味)作業である。

長々と歴史科目の悪口を言ってきたが、なぜ歴史を学ばなければいけないのだろうか。

その答えは簡単で、『歴史から学ばなければいけないことがあるから』である。

まあ、一つ前の文を逆説的に言っただけなので強調表示するほどのことでもないが、逆に言えば歴史が教育の原点であると考えている。

そもそも教育とは、それまでの人類が築き上げてきた知の結晶を、我々の代・さらには後世に語り継ぎ、その知の結晶からさらなる知の結晶を編み出し、人類を幸福へと導くものであると考えている。

すなわち、先人が発明した人として生きていくための『基礎』であり、新しいものを生み出す『材料』であり、人とのコミュニケーションを図ったり、知恵といった『道具』である知の結晶を繋ぐことが教育である。

例えば国語や英語は、コミュニケーションの道具として、日本語・英語という人類が発明した言語を用いている。また、数学も人類が効率性を求めた産物であり、自然現象を端的に・効率的に表現する方法として発明されたものである。

人類の発明というのは、主に2つの理由があって行われる。1つ目はもったいない、そして2つ目はめんどくさいである。資本主義が発足したのには限りある資源をどのように効率的に使うかという理由であり、言わば『もったいない』である。また、手作業でやるととんでもなく時間がかかってしまうため、機械を導入することで無駄な手間を省くことができる。これは手作業の『めんどくさい』と時間が『もったいない』の2つの要因が作用している。このように、「もったいない」か「めんどくさい」またはその両方が作用するとき、発明は生まれるのである。ではどのような時にこの作用が起きるのか。それは『効率化を求めた時』である。よりシャープに、簡素にを様々なものに求めて効率化を図った結果が、今の生きる社会であり、その歴史を学んでいるのである。

効率化は時間であったり体力であったり資源であったりするわけだが、その効率化は人々の余裕を生み出し、その余裕が幸福に繋がっていると考える。(一概に言えることではないが)

このように、人類は効率化による幸福増大を求めて来たわけである。これはもちろん成功だけではなく、殺戮や戦火などの負の遺産・失敗も当然あるわけである。成功と失敗を同時に学ぶことが大事なのは言うまでもないだろう。なぜ成功したのかだけでなく、なぜ失敗したのかも考えた方が成功のチャンスを得やすくなり、『効率的』であろう。

話が右往左往したが、人類社会の効率化を求めた発明、人類社会の破滅危機を招いた失敗、この双方を学ぶことができるのが『歴史』なのである。中国の故事「温故知新」は「昔のことと今のことを同時に知る」という意味であり、まさに歴史を学ぶ意義であり、過去の成功と失敗を同時に学び、現代社会の発展に役立てることが歴史を学ぶ目的である。各科目ごとで詳しい発明内容を学習するが、それを効率的に一遍にしたのが『歴史』という科目であると言える。

最後に、歴史はその事柄だけ覚えても意味がない。それがなぜ起こり、どのような影響を及ぼしたのか、そこまでしっかり学習することで、初めて『歴史』を学んだことになるのである。単語を覚えるだけで十分なら、クイズとしてそれを極めた方が良いとアドバイスをしておく。