拝啓、元気ですか?

   どうですか、のほほんと、暮らしていますか?ボクは、一生懸命でもどこか「のほほん」をかもしだすキミが大好きです。できればキミの人生は、悲しみも苦しみも苦労もない世界であってほしいと、ずっと願っていました。でも、きっとそうはいきませんね。今までも、決してボクが知ることのできない辛かったことや苦労して乗り越えたこと、誰にも言えない悲しみや後悔や悔しいことも、たくさん経験してきたことでしょう。本当は君が大人になるまで、ずっとそばにいて、一緒に生きて、一緒に成長して、苦しい時も悲しい時も、なにひとつ見逃さずにこの目に焼き付けておきたかったけれど、いま思えばそれはそれで親バカで過保護のボクは君の成長の足枷になっていたかもしれませんね。だから、キミにとってはきっとこれでよかったんだと。ボクは苦し紛れにそう思うことにしました。でも本当はどうだったのか、キミはどう思いますか?勝手な妄想、都合よすぎる解釈、本質を分かってないなど、異論反論、ボクはなんでも受け付けます。

 実はこの手紙を書こうと思ったのは、もうかなり前のことです。あれは確か、キミが中学を卒業する少し前のことだったと思います。いつものようにバーミヤンで、しこたまお酢をぶっかけたチャーハンと焼きそばに、ふたりして舌づつみを打って、面倒くさいボクの話にさんざんキミを付き合わせたあげく、自宅に送っていく途中、家のすぐそばの路地で車を停めて、これもいつものようにボクにとっては、とても大切なキミとの時間でしたが、キミが小学校の低学年だったころの小さな小さな昔話をした時のことです。キミはまったく覚えていないと言ったのです。少し確かめてみるとキミが覚えていなかったのは一つや二つではなく、ボクの記憶の中にいるキミを、キミ自身はかなり忘れてしまっている。一緒に暮らす普通の親子に比べたら、ただでさえ少ないキミとの記憶はいったいどれほど失われてしまったのかと、ボクはしばらく呆然としていたのを、今でもはっきりと覚えています。キミにとっていったいどんな幼少期だったのだろう。ボクと離れてお母さんの実家で暮らすようになってから、お母さんはおばあちゃんの介護でいつもイライラしていたし、おじいちゃんもおばちゃんも帰ってくるのはキミが眠った後だし、幼稚園でお友達はできただろうか、いじめられてはいないだろうかと、ボクはキミがいなくなった殺風景な家で長い眠れない毎日を過ごしていました。そりゃつらいこともあったに違いない、苦しいことも悲しいことだって、でもボクはそのほんの少ししか知らない。ボクはキミのそばにはいなかった。キミにより添えてはいなかったんだとあらためて気づかされました。ボクが帰るとき、玄関でなごりおしそうにキミに話しかけようとすると、キミは決まって「じゃね、バイバイ」と早口で言って、走ってリビングへ入ってしまいました。初めは見たいテレビでもあるのかなと思っていましたが、何度目かでキミが泣くのを必死にこらえていることに気がつきました。こらえきれなくなるとキミはボクに涙を見せまいとして「じゃね、バイバイ」と早口で言って、急いでリビングへ、キミがソファに飛び込むようにして泣く姿が、ドアに格子状にはめられた化粧ガラスの向こう側に透けて見えた気がしたのです。キミのお母さんが目の前に立っていなければ、ボクはすぐにキミに駆け寄って抱きしめていたでしょう。「パパが帰ってきちゃうからさ。」とキミのお母さんに急かされてボクは玄関を出ました。ボクも急いで農協の駐車場に停めた車の中へ、街灯もない真っ暗な駐車場でボクは時間を忘れて泣いていました。帰り道も涙で前がよく見えなくて何度も車を停めました。なんて言ってキミに謝ったらいいのか、どうすればキミを泣かさずに済むのか、ボクは本当に無力でした。あのころのボクにとっては、キミともう一度一緒に暮らすことだけがただ一つの願いでしたが、果たしてそれはキミにとって幸せなことなんだろうかと考え始めました。いま、キミの家族はこの家の人たちだ。おじいちゃんもおばあちゃんもおばさんも、みんな誰よりもキミのことを思い大切にしてくれていました。

「あの子が来るまでもう、ウチは毎日お通夜みたいだったの。」

キミが連れ去られてすぐの頃、キミのおばさんが電話で言っていました。キミが来てくれたおかげで、家の中が笑顔でいっぱいになったと。

「一緒に連れてこさせてくれて、本当にありがとう。」

と。ボクはいますぐキミを返せと、のど元まで出かかって必死で飲み込みました。

幼い頃の小さな思い出など、覚えていなくて当然なのに、なにを今さらへこんでいるのでしょう。どうしてこうなってしまったのか、ボクはそのことにもう一度向き合ってみようと思います。

 キミが覚えていなかったことで、思いもよらなかった喪失感に苛まれながら、キミを見送ったあとボクはまたしても農協の駐車場でへこんでいました。もしかしたらもうキミと暮らすことはできないんじゃないか、ボクはキミの父親だけど、キミの家族には永遠になれないんじゃないか。そんな考えが脳の芯の方から溢れてきて、その日は自宅までどうやって帰ったのか、高速に乗ったのか乗らなかったのかさえよく覚えていませんでした。自宅の駐車場に着いても、ボクはしばらく駐車場に車を止めて、眺めていた空の淵がかすかに色づいてきたころ、ボクはこの先の自分の人生がとてもつらいものになるような気がしてキミの家の方角に太陽が近づいてくるのを感じていました。そしてもしもキミと一緒に暮らすことが二度と叶わないのなら、いつかキミに手紙を書こうと決めました。途方もなく長い手紙になってしまうかもしれないし、キミが読んでくれるとは限らない。そもそもキミの手に渡せるのかもわからない。いま思い出してみると、そんなとてもネガティブな思いの中でこの手紙の執筆を決めたような気がします。だからまずは、キミがこの手紙に目を落としてくれたことに父として心から感謝します。もしかしたらキミが望むような物語ではないかもしれない。キミが思い出したくもないことを、知りたくもなかったことを伝えてしまうのかもしれない。それでもボクは、キミが忘れてしまったキミのことを、ボクのことを、キミが知らないキミとボクとキミのお母さんと、ボクらのそばでキミを見ていた人々の話をしようと思います。キミが、ボクがキミと離れ離れになった歳になったころに。キミが30年後の未来をたくさんの家族や友人たちと、いつものようにのほほんと、楽しく幸せに暮らしていることを願って、この手紙を綴ろうと思います。

 

 ちょっと大げさなプロローグになってしまいましたが、この物語はキミが生まれる少し前から始めようと思います。

 

1988年の師走、キミが生まれる約一年前、クリスマスにアメリカへ帰る友人たちを見送って、彼らが飼っているFATという猫をその友人たちが戻ってくるまでの間、預かることになりました。オスの彼は気が強く臆病でボクにもお母さんにもジョジョにもなつくことなく、家に来た日はエサにすら手を付けませんでした。ジョジョによく似た、頭に少しグレイ髪の混じった白猫の彼は気の毒なほど怯えていて、家に着いてもキャリーバッグの中から出ようとはしませんでした。キャリーバッグを横切るものすべてにシャーっとふきまくって、しまいにはお母さんが用意した餌にまで喧嘩をふっかけて、とうとう家に来て2日以上、水も飲まず餌も食べませんでした。その後お母さんとジョジョの懸命のストレスケアのおかげで4日後にはFATも餌を食べるようになって、ひと安心でしたが、FATにとってこの状況のあらゆる鬱憤(うっぷん)は、すべてボクに向けられるようになりました。狭い1DKの部屋で、食事中に近づくと吹かれ、すれ違うたびに吹かれ、目が合うと吹かれ、とうとう最後までボクが受け入れてもらえることはありませんでした。

「オレなんかした?」

とお母さんに聞いても、

「さあ」

と言うだけ、ボクは彼と仲良くなることをあきらめました。

 その年の年内の仕事は25日に終わり、年末年始はボクとお母さんの結婚式を除けば、ほぼ1年ぶりの休みでした。26日、お母さんは朝からいつものようにバイトに出かけ、ボクはそれを布団の中から見送ってもう一度寝ました。

 ジョジョが耳元で何か言っていました。ジョジョの声とすでに真上を過ぎようとしていた太陽の温もりに起こされて、

「あ、ごめん、飯ね。」

と気づいて、フラフラと台所へ、ジョジョとFATの餌を用意して床に置きました。タバコをくわえてベランダに出て火をつけると、なんだか胸のあたりが気持ち悪くてタバコを吸わずに外の空気を深く吸い込んでみました。いい天気だった。餌をかみ砕く音を遠くに聞きながら、今日は一日中ウダウダしてようとテレビをつけました。ジョジョたちの食事が終わって水を追加して、水を飲み始めたジョジョをしばらく見ていました。満足したように前足をなめて喉を鳴らしながらこちらに来たジョジョを両手でかわいがりながら、

「元気になってよかったな。」

と、ふと一年ほど前の不幸な出来事を思い出しました。

 キミは、ジョジョを覚えていますか?まだキミが言葉を話し始める前、とても可愛がっていました、家族だった白いメスの猫です。ボクがジョジョと一緒に暮らしたのは、まだお母さんと結婚する前、6畳に2畳くらいのキッチンが付いた1Kのアパートで、ベランダはありませんでしたが、窓を開けると狭い格子の手すりがついていました。初めは小さかったジョジョもどんどん大きくなって、一緒に暮らし始めて半年も経つと見た目はすっかり、大人の猫でした。冷たい冬が過ぎて春のぬくもりが感じられる頃、ジョジョは窓の格子の隙間から脱走するようになりました。窓がサッシではなく木枠だったことと、外壁がかなり古い木造だったことが、爪を立てて降りるのに都合がよかったようです。朝になるときまって玄関のドアの向こうでひと鳴きして、前足で顔を洗いながら僕がドアを開けるのを行儀よく待っていました。「まあ、いっか」と、いつも眠る前に多めに餌をあげるようにして放っておきました。ボクの帰りが夜遅くなったときは、部屋の前に座っていて、ボクを見つけては

「にゃっ」

と小さく泣いてからドアの方を向いてボクがドアを開けるのを待ちます。その姿勢のいい後姿がかわいくて、ボクはときどきすぐにはドアを開けずに、しばらく見ているようになりました。そんなときはきまって首だけで振り返って

「にゃ」

と催促をします。ボクはそれを待って

「はい」

と鍵を開けます。お風呂もついていない貧乏アパートだったけど、けっこう幸せな毎日を送っていました。深夜は今みたいに暇つぶしになるようなテレビ番組はなくて、ラジオの深夜放送を聴きながら邪魔するジョジョに手をやきながらなんとか小説や戯曲を読んでいました。なぜかそのころを思い出すと一緒にジャニス・イアンのWill you dance も思い出します。別によく流れていたわけじゃないし、そのころにはすでに10年前の曲だったのに。ジョジョは毎日楽しそうに僕の前ではゴロゴロ喉を鳴らして、それこそのほほんと幸せそうでした。

夏が終わりに近づいたころジョジョはあまり外に出なくなりました。具合が悪いようではないのですが、やたらと部屋の隅っこで過ごすことが多くなりました。そしてある日、ジョジョは玄関の前で突然大きな声で鳴き始めました。呼んでも、抱こうとしても動きません。さすがに何かあるのだろうと思ってドアを開けると、不安そうな表情を残して廊下に出て階段を下りてゆきました。ボクもすぐに後を追いましたが、1階に下りたところで見失ってしまいました。霧雨が音もなく落ちている肌寒い夕暮れのことです。無性に嫌な予感がして、ジョジョの名前を呼びながらアパートの周りを探していると、いままで聞いたことのないジョジョの叫び声が聞こえてきました。声を追ってみると、敷地内に停めてあった車の下、奥の方のタイヤの影にジョジョが見えました。苦しそうに身をよじりながらうずくまっていました。手を伸ばしても届かなくて、僕は砂利を敷きつめた駐車場に寝転がって車の下に入り込み、手を伸ばしながらジョジョの好きなバスタオルを手に話しかけていました。1時間ほどして苦しさが和らいだのか、ゆっくりと差し出したバスタオルの上に乗ってきました。時間をかけてゆっくりと車の下から引きずり出しました。すぐに子宮から出血していることに気づきました。ジョジョをバスタオルでくるんで近所の動物病院へ駆け込みました。危険を伴う緊急手術になりますと言われました。ジョジョのおなかの中には5匹のこどもがいて、全員死産でした。ジョジョは一週間で退院しました。朝晩おなかの大きな傷を消毒しながら、ボクのせいだと反省しました。早く避妊手術を受けさせていれば、こんなにつらい思いをさせずに済んだのに。ジョジョは1か月ほどで元気になりましたが、先生から、

「この子はまだ子供だから、この先、足腰が弱くなってしまうかもしれません」

と言われました。ジョジョは、しばらくおなかにできた大きな傷を舐めながら毎日のんびり暮らしていました。

ちょっと話が脱線しましたね。こういう話は脱線するとあとが面倒です、戻しましょう。

この年の年末年始は、結婚したこともあってまあまあ忙しいんだろうなとそれなりに覚悟はしていましたが、静岡からキミのおばあちゃんが出てくるとか、お母さんの実家に泊りがけで行くとか、話はいくつかあるもののまだ決定事項ではなくスケジュールも決まらないまま、ただ面倒くささだけが体をだるくさせている、そんな年末の始まりでした。

ジョジョとFATの食器を洗って、「休むって何すればいいんだっけ」と、またてもちぶさたにベランダへ出てタバコをくわえました。一本吸わないうちにまた胸のあたりが気持ち悪くなってきました。今まで感じたことのない感覚だったので、一度病院に行っておこうと思って着替えて玄関のドアを開けました。ドアを閉めて鍵をかけたとき、気持ち悪さが増してくるのを感じました。「少し急ごう」と思ってアパートの反対側にある階段の前まで来たとき、体から力がどんどん抜けていきました。

「いま階段を降りたら、途中で倒れて下まで転がり落ちるな。」

階段をあきらめ、救急車を呼ぶためにいったん部屋に戻ることにしましたが、秒単位で体が動きにくくなって、部屋のかぎを開けようとしたときは壁にもたれて立っているのがやっとで、鍵を回すのにかなり苦労して、やっと鍵を開けてもドアがやたらと重たくてなんとか玄関に体半分を入れた途端に倒れました。右足をドアの外に出したまま動けなくなりました。倒れたボクの顔の目の前でシャーッとFATがふきながらボクの顔をひっかき始めました。

「おまえ、こんなときに、」

と言おうとしても声が出ない。頭の上の方からジョジョの鳴き声がしていました。

「そうだ」

キッチンのどこかに電話線、下井草のアパートから持ってきた電話線、電話を置きたい場所から電話線のジャックまで距離があったから長い電話線を買っていました。確か3m、このアパートで余り過ぎた電話線は電話機のすぐ近くでだらしなく床に伸びていたはず。ボクはかろうじて動いた右手を伸ばして電話線を探しました。探し当てたときジョジョの前足に触れた気がしました。ボクはなんとか電話を引き寄せて、スピーカーボタンを押して119を押しました。

「事故ですか、救急ですか?」

の問いに、

「胸が・・・」

と言った瞬間に何もかもが動かなくなりました。しばらく、電話の向こうから何度も問いかけがありましたが、声を出すことすらできませんでした。その頃はまだ携帯電話がなく、固定電話だったことが幸いして(住所も名前もピンポイントで特定できるから)救急隊は驚くほど速く到着しました。そもそも歩いて1、2分の距離に消防署があったことが、ラッキーでした。ジョジョは鳴き、FATは吹きまくってさらにボクの顔を前足の爪を立てて引っかきまくっていました。

「もし生きて帰ってきたら、ただじゃおかないからな!」

心の中で叫びながら気が遠くなってきたところで、激しい靴音が近づいてきました。

「大丈夫ですか?話せる?声出せますか?」

3,4人が玄関の周りに集まってきたようでした。一人は背中を軽くたたきながら脈をとり、一人はストレッチャーを呼んでいました。

「ごめんね、猫がね、2匹とも逃げちゃった。ごめんなさいね。だいじょうぶかな。」

「だいじょうぶ、ジョジョはすぐ帰ってくるから。」と言いたかった。それ以降の記憶は断片的で、ストレッチャーで階段を降りるとき、頭の方から先に降ろされたから世界が逆さまに見えたことや、救急車の中で病院を探す救急隊員の声、症状がなにかのアレルギーの可能性があるからビタミン入りの点滴も入れられないこと。次に意識が戻ったのは高円寺駅近くの小さな病院のICUでした。胸のあちこちが妙に冷たかった。ベッドに張り付くように除細動器が置いてありました。

「使ったのかな?まあ、どっちでもいいか。」

人はこうやって死んでゆくのかなと、かなりあっさりとした意識の中で考えていました。

「奥さんに連絡がつきました。今こちらに向かっていますから。」

看護師が耳元で言いました。その後、ボクは何度も意識を無くし何度も意識を戻し、点滴一本入れてもらえないまま時間だけが過ぎてゆきました。常に医師が寄り添って、除細動器の準備だけは怠らない。そんな緊張した空気でやがて意識が安定してくるとボクは義人という友達を思い出していました。義人は小学6年生の時に東京から静岡市の森下小学校に転校してきました。色が白くて声が小さくて、明らかにボクらとは違う空気が漂っていました。ボクらはすぐに仲良くなって、毎日5,6人の塊であっちへ行ったりこっちへ行ったり、学区内を義人に案内しまくっていました。3日もするとボクらの遊び場のすべてに義人がいるようになりました。小学校の間は毎日一緒に遊んでいましたが、中学校に入ってクラスが違ってしまうとお互いに新しい友達が増えて、放課後の時間を他のことに使うようになってだんだんと会う時間が減っていきました。そして年一くらいしか会わなくなって、高校2年生の修学旅行の直前、彼は突然逝ってしまいました。信州の田舎に家族と帰省していた彼は、「今夜はみんなで一緒に寝たい」と珍しくお母さんにわがままを言ったそうです。その夜は、お母さんと妹さんと3人で一緒に眠ったそうです。明け方、彼は5分ほど苦しんで心停止、救急車は間に合わなかったそうです。彼は信州で荼毘にふされ、ボクらが連絡を受けたときには、もう二度と彼に会うことはできなくなっていました。お別れできなかった彼の友人たちのために、改めてお別れ会を行うことになりましたが、その日が修学旅行と重なる友人たちも多く、お別れ会に出席するために修学旅行に行かないと言いだす生徒が続出、いくつかの学校には義人のお母さんから友人たちの学校へメッセージが送られました。

「義人が行くことができなかった修学旅行に、どうか皆さんは行ってください。そして義人の分まで楽しい思い出をたくさん作ってきてください。義人にお線香をあげていただける方がいらっしゃれば、いつでも遊びに来てください。」

たしかこんな感じのメッセージだったと思います。ボクは旅行先でお土産を買って義人の家に数人の友人と行きました。義人のお母さんは、なぜかみんなの名前をほめました。ノートに書いたひとりひとりの名前を読み上げてその顔をじっと見て、「いいお名前ね、ほんとに。」優しい笑みを浮かべて、まるで生きていたころの義人を友達の姿に映しているように、さみしい顔をしていました。

「こんな感じだったのか、義人。」

なぜかあのときそう思いました。何の病気でこうなったのかさえ、全く分からないまま、死の瞬間の義人を想っていました。もしこんな感じだったのなら、それはよかったのかもしれない、と思いました。ボクは義人のお母さんから聞いた「明け方5分ほど苦しんだ」という彼のイメージが頭に刷り込まれていたようで、いまのボクと同じ程度なら全く苦しくはない。むしろ眠る前のけだるさのようだった。

 夕方になって、というのは時計を見たのではなく外からの日差しが弱くなったのを感じてそう思ったのですが、ボクは一般病室に移されました。胸には吸盤のようなものがいくつも張り付いていて、皮膚が引っ張られるようで気持ちが悪くて、どんなものなのか見たかったのですが、まだ体を起こすことはできませんでした。ボクは病室の天井を見つめながら、その先にあるはずの空を思い浮かべていました。もう死ぬことはないと心のどこかで確信しながら、死ぬことは恐怖でも不幸なことでもなく、ただ今のボクにとっては安息の地のように思えた。なぜそう思ったのか、いまだに思い当りませんが、死にたいとか逃げたいとかそういうネガティブな心持ちではなく、ただその先に何があるのかとワクワクした心があったような気がします。しばらくしてキミのお母さんがやってきました。パジャマやタオルや下着なんかを買ってきてくれました。「買い物している場合だったんだ」と心の隅っこで小さくイヤミって、「ありがとう」と言いました。夕飯は点滴で済ませ、ジョジョとFATが救急隊員に驚いて外へ逃げたとお母さんに伝えて帰るように促しました。その夜はゆっくり眠れたせいか、体調が良くて点滴を連れて病院中を歩き回っていました。

「原因は不明、病名は付きませんが、いわゆるポックリ病というやつでしょう。」

なんだか妙に機嫌の悪い医師でした。

「症状名はアダムストークス、日本名は心房心室解離、通常は発症から3分から5分で心停止し救急隊はまず間に合いません。」

また義人の顔が浮かびました。どうして死ななかったのかと聞くと、

「あなたがなぜ助かったのかは全く不明です。もしかしたら脳の中でバイパスが作られたのかもしれませんね。通常、脳から心臓へは電気信号が送られているんですが、それが滞るようになって、やがて心停止に至ります。しかしあなたの場合はなぜか電気信号が復活しやがて安定しました。」

と無感情に言われました。彼はカルテを見たまま止まってしまって、

「まさか、これだけ?診察ですよねえこれ。」

と心の中でつっこんだ。何の病気かわからない。だから治療もできない。ただ毎日24時間心電図をつけて経過観察しているだけでした。3日もすると、体はメチャメチャ元気になって、狭い病院の中を隅から隅まで歩き回って、屋上で腹筋やらプッシュアップやらやっていると心電図をモニターしていたナースステーションが大騒ぎになっていたようで、ひとしきり体を動かしてスッキリして階段を下りると婦長に見つかって子供のように叱られました。

「あなたねえ、ついこの間心臓が止まったんですよ!もう少し安静にしていなさい。ここは病院なんだから!」

いま思えば当然の叱責でしたが、その頃のボクは、ただ「ウザッ」という顔でため息をついただけでした。治療もせず、検査もしない、ただ24時間心電図を見ているだけの病院に不信感しかありませんでした。

 年が明けてさすがに我慢できなくなったボクは、半ば無理やり退院しました。なにがあっても病院の責任は問いませんという誓約書にサインして、東京医科大学病院に検査に行く約束をしました。少なくとも1年間は安静に生活しているよう医師から強く言われ、迎えに来てくれたキミのお母さんと10日ぶりにわが家に戻りました。ジョジョとFATは次の日に戻って来ていて、FATは相変わらず不機嫌な顔でボクを睨んでいました。1月中に紹介状を持って診察を受け、新宿の東京医科大学病院へ検査のためしばらく通うことになりました。基本、医師から絶対安静を勧告されたため、仕事も辞め演劇関係もドクターストップということで一切の活動を停止することになりました。すべてがボクの気持ちが届かないところで決定されてしまったので、これから最低一年間は安静にして何もするなと言われてもその通りにする気はさらさらなくて、さてこれから何しようかなと大好きな散歩と果てしない妄想を繰り返していました。「不毛」、最後はこんな言葉しか浮かばなくなっていました。そんな2月に入ったある日、お母さんがかなり冷たくなった目で言いました。

「そろそろ働いてくれないかな。借金が60万あるんだけど。」

「は?」

聞くと借金というのはボクの入院費用だったらしく、それはまるまるおじいちゃんに借りたそうです。絶対安静なんて不可能じゃん。でも確かにお母さんの月10万円足らずのバイト料じゃ生活自体が無理だな。とりあえずアルバイト情報誌を買ってきて、久しぶりだったせいか妙に楽しく一日中、ほぼ最初から最後まで読みふけりました。早速見つけたアルバイトは引越し屋でした。ふたりの作業員を連れて4tトラックを運転し、都内の引っ越し業務を行います。ふたりの作業員は毎日変わりますが、ほとんどがやる気のない大学生やしばらく働いていなかった的なオジサンとかニオイのきついホームレスとかで、いつも仕事の半分はボクが一人でやっていました。毎日ヘトヘトになっていましたが、いいこともたくさんありました。今はどうかわかりませんが、その頃は引越しのお客さんは必ずと言っていいほど引っ越し業者に一人2000円とか三人で1万円とか、ご祝儀をくれるのです。でもボクが出会ったお客さんのほとんどは、

「他の二人には絶対にあげなくていいから」

と前置きして、5000円札や1万円札を包んでくれました。(でも分けましたけどね)日給と残業代とご祝儀を合わせると17000円/日くらいになりました。これならなんとか借金も返せそうだと、できるだけ休まずに働きました。でもさすがに2月3月は引越し屋の繁忙期、毎日3件の引っ越しをこなしていました。ある朝、手に持ったはずの作業着が畳の上にあるのに気付きました。

「あれ?」

と作業着を拾おうとしたとき、作業着をつかめないことがわかりました。握力がほとんど無くなっていたのです。何度やっても作業着を手でつかむことができません。畳の上に広げてなんとか袖に腕を通して出かけました。握力が戻ってくるまで3日ほどかかったと思います。仕事は握力以外、つまりひじを曲げて手首までの間で持てるものに限定して運び、なんとか通常通りに業務をこなしていくことができました。バイトは契約通り4月の中旬まで働きました。ボクが働いているということは当然演劇関係者にも伝わり、稽古を見に来ないかとDDからお誘いがありました。その頃のボクには一つだけ頭の奥の方に小さく居座っている芝居がありました。それまで約1年間、即興でのみ実験的に少しずつ作ってきた舞台作品 「Inconsistencies」です。そうです、いつかキミは言いましたね、

「なんでお母さんは臨月まで舞台のAPやってたの?」

アレがコレです。そしてこの作品はキミの言うとおり、キミが生まれるちょうど1か月前の1989年10月11、12日 吉祥寺の前進座劇場で上演されました。ボクは稽古の見学に行ったその日に役者として復帰しました。もちろんそんなつもりはありませんでしたが、そもそもすべてが即興で作っている世界なので、「入れそうだったら、好きに入っていいから」と、ボクはまんまとDDの罠にはまってしまいました。そして少ししてお母さんのおなかの中にキミがいることが分かりました。ボクはシミジミと喜びました。あんなに幸せな気持ちは生まれて初めてでした。そしてその時、ボクはなぜかキミが女の子だと確信したのです。だからボクはキミの名前もその瞬間に決めたのです。キミが男の子か女の子かは生まれる直前まで知りたくないというお母さんの希望を優先して、お母さんが話題にするまであえて名前のことは言わないようにしていました。おなかも目立ってきてまわりから「男の子?女の子?」とよく尋ねられるようになってくると、お母さんは「それはね、生まれたときのお楽しみなの。」と嬉しそうに笑っていました。お母さんはもし男だったら「茂(しげる)」にしようと訳の分からないことを言っていました。どうして茂なの?と訊くと、ボクの親友の名前だから、と言っていました。息子の名前を友達を呼ぶように呼びたい人もいるのかもしれませんが、ボクはお母さんの意見を黙殺しました。それからのボクは24時間キミのことばかり考えるようになりました。でも、芝居をやめて就職する勇気もなく、自分の可能性は無限に続くと何の根拠もなく信じていた若かったボクは、キミの将来を憂うこともなく、ひたすら楽観的に幸せな女性に成長してゆくキミの姿を妄想して、幸せオーラを全身から放ちながら 「ああ、あの時死ななくてよかった」 と、以前とはまるで違って見える世界を楽しんでいました。ボクたち三人は必ず幸せになるんだという子供じみた思い込みは、甘ったれた世間知らずの幻覚だったとやがて思い知ることになるのです。

 ともあれ ボクは芝居の稽古に復帰し、メインキャストに抜擢され、同時にサラリーマンになりました。就職したのは知り合いが課長を務める六本木にあった不動産関係の広告代理店でした。社長面接で 「舞台の前1か月くらいは、午後は芝居の稽古があるので、ほぼ午前中しか仕事はできませんけど。」 と言うと、 「結果を出してくれればいいよ。」 とあっさり入社を許可されました。別にボクが認めてもらったということではありません。わかりやすく言えば、「バブル」 だったのです。なにせ次の日にはカローラFXを一台会社から与えられ、車で通勤することになったのですから。ボクの担当は東急不動産、渋谷の東急プラザの営業本部に毎朝直行して2時間程度の営業と打ち合わせ、午前中に会社に戻ってデザインチームと打ち合わせ、細かい下請けへの発注はすべてFAXで送信して遅くても13時までには会社を出て稽古場へ向かっていました。稽古が終わると首脳陣と食事兼打ち合わせ、首脳陣は演出のDDと西荻窪でお別れ会をやったプロデューサーの松本さんとアシスタントだったキミのお母さん、メインキャストの中村しゅうとボク、CRANE RIVER のスタッフたちです。打ち合わせ終了後、ボクは会社に戻り届いていたFAXを整理し発注書を作成しFAXで送りその日の仕事を終える。阿佐ヶ谷に帰るのはいつも0時ごろ、こんな感じの生活が本番直前まで続きました。こうしてキミがこの世に誕生するための準備が出来上がりました。産婦人科はDD に紹介してもらった三軒茶屋の先生にお願いしましたが、取り上げるのは今はやっていないのでと、その先生に紹介していただいた仙川の病院でキミを出産することになりました。

 いろいろと時間がかかってしまって申し訳ありません。まだまだ先は長いのですが、今回はここまでにさせてください。今年はいままでよりも時間を作ってこまめに手紙を書くようにします。

 

 そういえば、「わたしの子守唄は“U2”だったの?」といつかキミに聞かれたことがありました。鶴川で一緒に暮らしはじめたころは“U2”の頻度が高かったのは事実ですが、思い出してみるとボクはかなり多くの楽曲をキミの子守唄として採用していました。それはたぶん、キミがまだお母さんのおなかの中にいるころ、やたらとクラッシック、クラッシックと騒ぐお母さんや周りの人たちにボクがウンザリしていたせいで、いまさらですがどんな楽曲だったか思い出してみました。機会があれば聴いてみてください。

 

カルメン・マキ “Easy come, easy go” "私は風" “空へ”

サザン “Oh クラウディア” “ラチエン通りのシスター” “涙のアヴェニュー” “わすれじのレイドバック”   “いとしのエリー” “メロディ” “YaYaあの時代を忘れない” “旅姿六人衆” “夏をあきらめて”

RC Succession “スローバラード” “エンジェル”

オフコース “Yes, Yes, Yes,”  “I love you”

The Beatles  “Let it be” “Across the Universe” “Oh darling” “Hey jude” “If I fell” “In my life” “Michelle” “The long and winding road”

U2 “with or without you” “I still haven't found what I'm looking for” “One”

“Where the streets have no name” “Pride” “Sunday Bloody Sunday”

“All I want is you”

原田 真二 “ティーンズ ブルース” “タイムトラベル” “キャンディ” “シャドーボサー”

The Rolling Stones “Angie”

チューリップ “心の旅” “サボテンの花” “青春の影”

Harry Nilsson “Without you”

Bette Midler “Rose”

 

 他にもあった気がしますが、いま思い出せるのはこのぐらいです。ボクにとって何より幸せなひとときでしたから、久しぶりにこれらの楽曲を聴くと阿佐ヶ谷のアパートや鶴川を思い出します。幸せというものが何なのか、ボクに教えてくれたのはキミでした。

 次はいよいよキミがこの世界に登場します。最後まで読んでくれて本当にありがとう。では、また。