ANNIです。
よく無心に、たとえばお皿を洗ってるとか、歩いてるとか、掃除してるとか、
というときに、
ふと何かを思考することがあります。
先日、ふと思ったこと。
聖書の中で言う「罪」って、
悪事を行うとか、人や物を傷つける、とかっていうよりも、
原語的に言えば「的外れ」「神様から離れて生きている」てことですよね。
「自分は愛されない」とか「だれも自分を愛してくれない」
と思うってことは
裏を返せば
「本当は愛されるはずなのに」
「愛されるようにうまれたんじゃなかったの?」
て思ってるってことなんじゃないか?と思うわけです。
もし、アダムとイブが罪を犯して、
善悪を知る木の実を食べなければ、
アダムもイブもその子孫も、私たちも
「愛されない」なんて概念がなかったと思うんです。
罪が入り込んだから「愛されない」て概念が生まれたんだと思うんです。
だから、
「愛されない」って思いがある、ってこと自体が、
「自分の中に罪がある証拠」「生まれながらに罪人」
ってことになるんじゃないかなって。
で、キリストの十字架を信じて、その罪が赦された、贖われた、おおわれた
と、もし本当に受け止めたら、
きっと「愛されない」って概念は吹きとぶんじゃないかなって。
もし、信仰を持っても「愛されない」て感覚があるとしたら、
それは、どこかで罪に引きずられてしまっているってことかもしれない。
地上にあっては、その心の中のせめぎあいは続くだろうけど、
「愛されない」って思いがあったら、きっとそれは「罪」からくることで
どこか神様から離れてしまっている状態なのかもしれなくて、
もう一度、その罪の事を神様の御前に出して、祈って、
心を整理することって、大事かもしれない。
そんなことを、お皿洗いながら思い巡らしておりました。
つぶやき、つぶやき、、、
よく無心に、たとえばお皿を洗ってるとか、歩いてるとか、掃除してるとか、
というときに、
ふと何かを思考することがあります。
先日、ふと思ったこと。
聖書の中で言う「罪」って、
悪事を行うとか、人や物を傷つける、とかっていうよりも、
原語的に言えば「的外れ」「神様から離れて生きている」てことですよね。
「自分は愛されない」とか「だれも自分を愛してくれない」
と思うってことは
裏を返せば
「本当は愛されるはずなのに」
「愛されるようにうまれたんじゃなかったの?」
て思ってるってことなんじゃないか?と思うわけです。
もし、アダムとイブが罪を犯して、
善悪を知る木の実を食べなければ、
アダムもイブもその子孫も、私たちも
「愛されない」なんて概念がなかったと思うんです。
罪が入り込んだから「愛されない」て概念が生まれたんだと思うんです。
だから、
「愛されない」って思いがある、ってこと自体が、
「自分の中に罪がある証拠」「生まれながらに罪人」
ってことになるんじゃないかなって。
で、キリストの十字架を信じて、その罪が赦された、贖われた、おおわれた
と、もし本当に受け止めたら、
きっと「愛されない」って概念は吹きとぶんじゃないかなって。
もし、信仰を持っても「愛されない」て感覚があるとしたら、
それは、どこかで罪に引きずられてしまっているってことかもしれない。
地上にあっては、その心の中のせめぎあいは続くだろうけど、
「愛されない」って思いがあったら、きっとそれは「罪」からくることで
どこか神様から離れてしまっている状態なのかもしれなくて、
もう一度、その罪の事を神様の御前に出して、祈って、
心を整理することって、大事かもしれない。
そんなことを、お皿洗いながら思い巡らしておりました。
つぶやき、つぶやき、、、