皆さん、お正月はいかがでしたか?私は新春早々ついてない事が起きてしまい、前回自分がアップしたMavisの”Tomorrow “を何度も聴いてなんとか持ち直してるところです笑。いや、これは実に効く!不思議と彼女のパワーは私を前に向かわせてくれるんです笑
普通車が二台なんとか通れるくらいの、少し狭い、とは言ってもいつも通っててこれまで何の問題もなかった道路で、対向車と立ち往生してしまい、相手は頑なに動こうとしないんです。ほんの1メートルほどバックして、すぐ左脇にある道路にちょっと入ってくれたら、お互いにスッと交わせてなーんも問題ないのに、それさえしてくれず笑。(普通の人はこの時点で必ずそうする!)

挙げ句の果てに怒鳴る始末、。仕方ないからはいはい、私がバックしましたよー二十メートルちかく!でその後ちょっとパニクってガリガリガリ、、やっちまった〜〜ショーック笑。

いやはやなんとか今年無事に過ごせたら良いんだけど、お祓いに行った方がいいのかな笑
という事でここで一曲、スーパーベタですが、ダニエル・パウターの「Bad day」を。(これしか思い浮かばなかった笑)


さてさて最近音楽ブログっぽいのが続いてましたが、今回は久しぶりに本の感想を。

ところでお正月に観た映画は去年11月頃に録画してまだ観てなかった「シャイニング」と先日録画したばかりだった「La la land」の二つのみ。シャイニングは映画ブロガーさんのレビューを読んで予習させて貰ってたので、とても面白かったです、しかしLa laの方はと言えば、、どうしてもあの世界に入り切る事ができず、、三回続けて連続して途中で寝てしまうという笑笑。やっぱりミュージカルは不得意かな。(あの映画好きな方すみません汗)

という簡単な近況報告はこのくらいにして、今回書きたくなった本は、(*ああ、今回も多分かなり長くなりそうな予感、笑)インド系アメリカ人作家、ジュンパ・ラヒリの「わたしのいるところ」、というタイトルの本。
この作家の本、以前2冊ほど読み、特に「見知らぬ場所」、これがとっても良かったので、ちょっとマークしてはいたんです。



今回あの、「コンビニ人間」の村田沙耶香さんの書評を読み、絶対読みたいと思って図書館で借りてきた次第。
この本はラヒリがイタリア語で書いた(*通常は英語)最初の長編小説。と言ってもストーリーは特になく、46の章に分かれた(*一編が数ページの短さ。)ひたすら日記風に日常生活に起きたことを淡々と、基本俯瞰して描いたもので、掌編小説集、文字通り掌の小説と呼んだ方が正しいのかも。

とにかく目の付け所が実に面白いんです。(=私好み)
おそらく誰にも必ず身に覚えがある、だけどそのまま見逃してしまいがちな一瞬を立ち止まってフォーカス、、これって何となくあのアリスマンロー的手法にちょっと似てるな、と直感でそう思ったら、何と影響を受けた作家名にしっかりマンローの名前が挙がってました。やはり私はこういうスタイルの文体に惹かれるんだな、と再確認しましたね。

主人公は、自分が生まれ育ったであろう土地の大学の研究者であり教師。(ローマと思しき)その土地をずっと子供時代から離れる事なく、というか離れたいけど離れる事が不安なまま、現状維持でここまで来た40代の独身女性。
タイトルにある通り、様々な日常生活で誰もが訪れる場所、例えば仕事場、病院の待合室、美術館あるいはスーパー、バール(軽食喫茶店)、トラットリア(大衆向けレストラン)、文房具店といった場所にいる「私」と、そこですれ違ったり、会話を交わしたりする相手を、自分の物差しで巧みに想像力を働かせオブザーブしたり、あるいはそれらを自分に照らし合わせ、自嘲してみたり。
これが何といっても飽きさせず面白く、読ませるんです。

それでいて彼女は何処にいても、誰と付き合っても、結局何処にも心から所属する事ができません。
もしかしたら孤独を毛嫌いして排除しようとした母親への反動なのか?
親から受けた影響って、それがいい事であれ逆に反面教師にしたい部分であれ、大人になっても完全には消えず、いつまでも付き纏う、そう思う時があります。

実際のところは所属したい気持ちと、そうでない不安な気持ちの間で揺れ動いている、といった方が正しいかも知れません。
ラヒリ自身もこう言ってます。「自分にいつも欠けていたのは前に一歩踏み出す力だった。」そして、「孤独は私そのもの。孤独に動かされて私は書いてきた」とも。しかし作家って彼女に限らず皆、基本孤独じゃないかとは思いますね。孤独を徹底的に知っているからこそ、相手(や物事)を客観的に観察出来るんじゃないか、と思うし、客観的に観察出来る能力があるから書ける、そんな気がします。

そしてこの本には土地や人物の固有名詞は全て排除され、名前がないんですが、その辺りをインタビューでラヒリが非常に興味深く答えているので、ちょっと引用します。

「名前は一つのレッテルで、何かを説明するけれど、生まれや母語と同じように自分で選べません。でも一人の人間の本質は押し付けられたものとは別なので、そこに衝突が生まれる、この衝突に興味があるんです。中略。私にとって名前を取り去る事は、ある種の重荷からの解放です。名前がなければ、境界ももはや成り立たないし、何かを取り除く事で、色々なものの意味が広がるんです。」
うーんなるほど、。要するに、生きていく上で名前のある何か、例えば誰かの夫であったり、妻であったり、会社という組織名、はたまた職業名、そんなものに所属した私たちが(まあほとんどの人がどれかに当てはまりますよね。)何かに矛盾を感じたり、違うな、と強く感じたりするのはつまり、所属する以前の、個人としての本質の心の叫びなのかもしれない!?と思ったり。

特に生まれも母語も言ってみれば不可抗力ですから、自分の力でどうすることもできません。ラヒリ自身ベンガル人を両親に持ち、その両親がアメリカ移住後に生まれた、と言った背景を持っているのでそれを特に意識せざるを得ない環境下だったのでしょう。
これって案外私たちにも当てはまるんじゃないかな、とちょっと目から鱗でした。今まであまり意識してこなかったけれども。

誰しも日常の中で、へ出かけ、人に会い、家(=内)に帰るを繰り返し、まあそれこそが生活であり、ひいては人生の大きな部分を占めるんでしょうが、この本の主人公も当然それをしつつも、他人との強固な結びつきを避けてしまい、何かに従属することを望んでいない、つまりそうすることで自分が変化する(させられる)事を恐れているんですね。

生きていく上で刺激は勿論欲しい、けれどもやはり内側にまた引っ込む、その繰り返しでまさに揺れ動いている。まるで戒律でも自分に課しているかの様にストイックに自制しているんです。
とはいえ自分をさらけ出したい欲求とのジレンマも、そこには勿論感じ取れるんですが。

ともすればマイナスと捉えられがちな孤独は、見方を変えると、(作者の意図とは違うかもしれないけど)もしかしたら最上のラグジュアリーかもしれない、この本を読んでいると私なんかは、ふとそんな風にさえ感じてしまいました。

孤独を知っている人にしか見えない、感じられないもの、これは絶対にあると思うんですよね。そしてそれをというフィルターを通して眺めた日常の46の点描が、点描だけにとどまらず、非常に味わい深いものになっているのは、やはり何と言ってもそういう視点があるからではないか、そんな風に思いました。

とはいえ、最後の最後で、彼女がそれまで飛び越えられなかった一線を超えて変化を受け入れるかもしれない、そんな余韻を残したまま実は終わるんです。続きをこの作家がもし書くとしたらどの様な展開になるのか、ちょっと知りたい様な気もしますが、、きっとそれはないんだろうな、と思います。
 
(ジュンパ・ラヒリ。美しい人ですね)

最後に村田沙耶香さんの書評の一部を少し。「私は本棚にこの本を大切に並べる。孤独でなければ、こんなにこの本を愛することはなかった。やはり孤独は、私の人生のかけがえのない一部である」
うーん、同感です。高齢化社会と言われて久しいですが、結婚していてもしていなくても、子供がいてもいなくても、最後に人は一人で死んでいく。そんな覚悟の様なものを求められている今だからこそ、孤独に慣れておきたいし、孤独を味わえる自分でありたい。
この本繰り返し読みたい、そんな一冊になりました。

最後にもう一曲、(やはり音はどうしても入れたい笑)歌詞内容がとても切なく、孤独を連想させるRadioheadの「Creep」を。若干こじつけです笑。
ギターのガガっから入って、グゥワワーンの後、超カタルシス、気持ちイイです笑。



*著者ラヒリは、ベンガル人両親が渡米後に生まれた、と書いてしまいましたが、そうではなく、ロンドンで生まれ幼少時に渡米、の誤りでした。
訂正いたします。m(_ _)m