長い長い付き合いは終わったのだ。


何も無く、がらんとした殺風景なこの部屋で、たったひとりだけこの部屋で

わたしは泣き明かした。





孤独と悲しみが交差していた。

薄暗く寂しい夜を、毎晩のようにわたしは泣き明かした。





そんな時、浮かんできた大概の言葉が自分に厳しかった。



何か大きな罪のようなものを犯しているかのようだった。



わたしは彼と別れたことで得体の知れない恐怖を感じていたのだ。



未知への脅威。そして自分への不甲斐なさ。







「どうして、わたしは彼を許せなかったのだろう?」



「わたしの辛抱が足りなかったのだろうか?」



「親に心配かけるだろうか?」



「友人、知人、近所の人たちの笑い者になるのだろうか」



「恥知らず!と、噂になるのだろうか?」



「至らない、わたしが悪かったのではないか?」



「わたしは自分勝手なことをした冷たい人間なのだ!」







後から後から自分を責めるような言葉が浮かんでくる。





ひとしきりネガティヴな感情に浸ると今度は




「自分を責めたところで、何になるんだ!」




ふと、そう思いなおすのがいつものパターンになっていた。





気持ちを切り替えるために洗濯や掃除をして身体を動かした。





動きたくないときはひたすら横になった。






容易ではなかったが、落るとこまでいくと勝手に上がるようになっていたし、

何より、自分を労わった。








そして、最後は彼の幸せを願った。




別れた男を憎む行為はわたしはしなかったし、できなかった。






今でこそ、ヨガや瞑想から得た知識で相手を想うアファメーションの威力を知っているが、




わたしはこの時から、わたしだけの感覚でやっていたのだ。




相手の幸せを願う。









彼と離れて、穏やかな自分に戻れたのだ

夜な夜なネガティヴな感情に呑まれそうになりながらも

わたしはわたしで幸せだった。







わたしを束縛するものは何もなくて

わたしは自由になったからだ。








『自分が自分でなくなる』

『このままでは自分がダメになる』

彼と一緒にいることで、こういう風に思ったのだから、苦しくなったのだからしょうがない。







わたしは逃げた







あれだけ結婚したい!と思っていたのにもかかわらず

彼との結婚生活は僅か7ヶ月で終わった。







思えば、プロポーズは突然の出来事で、その内容に実のところ

わたしは引いていたのだ。







先ず結婚しよう!一緒に住もう!は嬉しかった。



でもこれには条件付きだった。





なんと彼はわたしの承諾を待たずに

婚約していると嘘をついて市に公団の申し込みをしていたのだ





そして、市からの要請で僅か一ヶ月以内に団地へ住居を構えることになっていた





あまりの唐突さにわたしは困惑した

それから妙な申し出が彼からあった




わたしの家族、父や母の年収を書き込む用紙を手渡してきたし、

実家は持ち家だったのだけど、家の権利書のコピーをくれと言ってきた






どうやら彼は自身の障害者であることを利用して、公団に申し込んだのだった。




何級かわからないが彼は障害者手帳を持っていた。




仕事中の事故で足に後遺症が残ったのだ。




リハビリの甲斐あって

普通に歩いたり、走ったり、自転車にも乗れるし、普段の生活になんら支障がなかったので、




わたしは彼を障害者だと思ったことは一度もなかった。







親の年収、持ち家の権利書が必要なのは、障害者であるからなのか?




それはわからなかったし、彼に聞けなかったが、




一般応募期間ではない、しかも年末にさしかかる冬時期に

どうりで引越しを急かされたわけである。







心のざわつきを感じながらも、わたしは母にゆっくり相談しようと思った。




しかし、なんとそのまま彼が、

結婚話しをしに母にお願いに家に来るということになった。





まさかの展開である。





でも、やっぱり結婚できるとなると、それはそれで嬉しかったし、



だって女の子なら小さい頃から憧れる花嫁さんになるのですから。





待ちに待っていた結婚なのですから。




でも、なんだかどこか、わたしは気分が晴れない部分があった。






彼は焦っていた

一緒に住むまでの期間が約一ヶ月しかない。



ここで親に反対されては話しが進まない。

それは困る。





何が困るのだろう?



そう、
彼は異常に子供を欲しがっていた。





そして、彼は生殖機能が低下しつつあると医師から告げられていて、


それで焦っていた



これは後から聞いた話






とにかく、結婚を急ぐ彼はことを早く進めたかった。




彼がわたしの母に話し、母が父を説得してもらいたい作戦に出たいと申し出てきた。




男にとって、彼女の父親はとてもおっかない怖い存在なのだろか?







彼はわたしを家まで送ると

いきなり家に上がり込み、母に今すぐわたしと結婚したいと話した。




母も突然のことで驚いていたが、最期まで話しを聞いてくれていた。





彼との付き合いをあんまりいい顔していなかった母が、話しを聞いてくれている




なんだか不思議だった




彼が帰ったあとも母は反対意見を言ってこなかった


なんだか不思議だった






それから母は家族の年収を知らせる用紙も書いてくれたし、

家の権利書のコピーも用意してくれた





これは父には内緒の様子だったが、家の大事な書類なのに母は黙って用意してくれた。






あまりにトントン拍子にことが進むので

わたしは置いてきぼりになったような、心がついていかない感じもあった。




このまま本当は実家に留まりたいような

そんな気持ちにもなった。







そう、わたしは

母が彼との結婚を反対するとおもっていた。

母に反対して欲しかったのだ。









「うちの大事な娘を、はいはい急ぎですか、住むところの申し込みがね〜って、

はいそうですかって、承諾できません!




本当に娘と結婚したいのなら、1年ほどの婚約期間を経てからでも遅くはないとおもうんだけど。



それに、父親にはあなたたちから話しなさい。大事な書類のことも含めて」




彼にそう言ってもらいたかったし、






「あなたに内緒で住むところを手配している彼は、サプライズもいいけど、

本当にあなたと住みたいのかしら?

あの出来立てで綺麗な公団に住みたいだけじゃないのかしら?

急いで決めなきゃいけないなんて。

あなたも本当のところ、そう思っているんじゃない?」




わたしにそう確認して聞いてきて欲しかったし、





こう、ぴしゃりと母に言って欲しかったんだな〜と思う





実際の母は反対するどころか、彼の話に押されて弱弱しく感じたし、

父への説得も応じてくれた。




母なりに精一杯 力になろうとしてくれていた








布団にくるまり目を閉じても離れない言葉があった

別れに瀕するとわたしに向かって彼がいつも言うセリフがあったのだ



「俺と別れても、

俺のことは一生忘れることはできない。



御主が他の誰かと一緒になっても、

俺という人間が

亡霊のように御主につきまとうだろう」




この言葉だけ聞くと、

一見凄い自信に満ちた傲慢男の塊ようにおもうが、



実は物凄く自分に自信がなく、

相手をわたしを信じることを恐れていたのだ。





どうであれ、

こうして別れて四半世紀近く経とうとしてるのに



彼のことを鮮明に覚えているというのだから、

ある意味、彼の思惑に乗っかったのかもしれない。




そう思いふけりながら、わたしは紅茶を飲んだ。










こんなことも思い出した


彼がわたしに

「絶対に持つな!」と言ったポケベルや携帯電話。


両親すら禁止しなかったが、

彼は違ってわたしに禁じた。




その当時、

彼は自分より新しいものを持つ女を

目立った行動をする女を

ひどく嫌っていたのだ。






周りの仲の良い女友達たちとも

わたしは連絡しづらくなっていった。






彼はわたしが着る服にもうるさかった。

襟ぐりの大きく開いたものは

しゃがんだときに胸元が見えるからと言って、

首の詰まったブラウスを着るように強要してきたし、


スカートの丈は膝よりも下の

ロングスカートを履くのを好んだ。





身体のラインが見えるのを徹底的に嫌っていたから、



わたしがTシャツやカットソーをデートで着て行った日には、

こっぴどく叱られることもあった。





化粧も嫌っていた。

男に色目を使うといって、

わたしに年相応に綺麗になることを禁じた




彼曰く、他の男どもに

自分の彼女をいやらしい目で見られたくないのだという。



度を越すヤキモチ。

束縛。





にしても、女友達のみならず、流行のファッションからもわたしは遠退いていった。




それはそれで、

「あぁ、この人はそれほどまで想って、わたしのことを好きでいてくれているんだな」と



当時のわたしはめでたく思っていたし、

そう思うようにしていたところもある。




彼の口うるさいのが「あぁ、嫌だな〜」とちょっとでも思ったなら、




そんな自分を薄情なヤツだ間違ってる!

と思い、彼の愛に応えようと必死だった。







でも今は

初めて持った携帯電話をいじっては、一日を無駄に過ごすこともある。



好きな服を買いに自転車を走らせることもあった。



その自転車は彼が乗るように勧めてきたママチャリではなく、

小さな車輪の折りたたむこともできる自転車だ。



茶色の革を張ったサドルが黒い車体によく映える。



おしゃれな雑誌で見かける自転車だ。








とても軽かった。

苦しいものはもう何もなかった

身に纏うものも、自転車も、わたしの心も

風のように軽かった

そう、わたしは元々軽かったんだ

そんなのを思い出しながら、わたしは自転車を走らせるのだ。








人は皆、合わせ鏡だという。

そうなのなら、


彼にそうさせてたのは、このわたし。

わたしにそうさせたのは、彼なのだ。






わたしは母に大事な娘だと言って欲しかった

彼も自分の母に大事な息子だと言って欲しかったのかもしれないな




長い長い付き合いは終わった

長い長い旅も終わった



<完>