胸のザワつきが止まるまで

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女が車のドアに手をかけた

運転席すぐ後ろのドアが開く。

女が言う「さあ、どうぞ~」

息子がちょっと微笑んで車に乗り込んだ。

息子は頭を打たないように腰をかがめて奥へと進んでいった。

ん?わたしは違和感を感じた

胸がザワついたのだ。

でも、どうしてざわつくのか、なんなのかわからない。




女が言った「お母さんもどうぞ」

女はまだドアを持ったままだ。

ニコリと笑顔で立っている。



息子ははもう奥の席に座っていた。

私はザワついたまま身をかがめた。

私は車へ乗り込んだ。

息子は助手席の後ろに座っている。

わたしは運転席のちょうど後ろの席である。



女が「閉めますね~」と言った。

ドアがバタンと閉まった。

わたしはやっぱり心のどこかザワついたままだ。



息子はシートベルトを未だ着けていない。

どこにあるのかわからないのだ。

いつも利用するタクシーとは使い勝手が違うもんなー。

私はそう思いながら息子のシートベルトをすぐに探した。



背面の後ろ端にぴったりとくっついて、シートベルトはあった。

わたしは見つけると思い切りそれを引っ張った。

すると、ゴムのようにベルトが伸びた。



座面に埋まっている穴に金具を入れればカチッと音がなってシートベルトの装着は簡単に済む。

そのはずなのに、なかなか金具がかみ合わない。

わたしのさっきからあるザワつきが邪魔をしてるのだろうか?

なんども向きを変えてみると、やっと金具が噛み合った。

カチッ。

次は私の番だ。

今度はすんなり着けることができた。

カチッ。





わたしは後部座席だからと言ってシートベルトを締めない愚かな者ではない。

運転手がどんなに嫌な顔をしようとシートベルトはする派なのだ。

嫌な顔をする運転手は、シートベルトしなくて大丈夫だから!と大抵は言う。

運転手は自分の腕やドライバー歴を汚されたとでも思っているのだろうか?

わたしはそんなつもりは無い

ただ教習所で見せられた、自動車事故の実験映像が頭から離れないのだ。

小学生のときに体育館で見せられた数々の事故映像も所々いまだに覚えている。

私は怖がりなのかもしれない。

心配性なのかもしれない。

でもこれが私なのだ。




私が私であるように他者も他者である。


ときどき見かけるが子どもを助手席に乗せている大人。

しかも子どもにシートベルトを着けさせていない。



また、子どもを後部座席に乗せていても

子どもが嫌がるからと自由に歩き回らしていて平気な大人もいる。


車内では、キッズ用英会話CDを大音量で流し、

お菓子を手にした子どもたちが泣き叫んだり大声で歌ったり、

まるでその家族の毎日繰り返されるリビングでの日常ごと移動しているように思える。




自動車販売のテレビコマーシャルが加勢しているのだろうか?



確かに家族みんな和気あいあい楽しそうなコマーシャル映像が多い。

たくさん物を詰め込んでるし、人だって4人以上乗っていたりする。

とにかく、部屋みたいに広いんですアピールはある。



しかし、だ。


走行中の車内シーンはどの車会社も皆シートベルトをしている映像だ。





子どもにシートベルトを着けさせない大人は

走行中なにが起こっても覚悟のうえなのだろうか?




まあ、どっちにしたって子どもを想う親に変わりはないのだから。






話を戻そう。


女は私たちがシートベルトを着けてる間、エンジンもかけずに静かに待っていてくれた。

そう、女はタクシーにありがちな、客が乗るとすぐに発進するような運転手ではない。



ほとんどのタクシー運転手は客が乗るとハンドルを握ったまま首だけ振り返り

「どちらまで?」

客から行き先を聞くなり、運転手はアクセルを踏む。

すぐに発進するのだ。

客にシートベルトを着けさせる時間はゆっくり与えてはくれない。



タクシーに乗ると発進30メートルほどは

後部座席の客である私はシートベルトの金具合わせに、ほぼ100%あたふたしている。


だが今は違う

この車はタクシーではない。女の車だ。




落ち着いて、いや内心お待たせちゃってると思いながら

私はほんの少し手を早めたのだ。

少し気は焦っていた。

だが、発進直後30メートルの走行中にシートベルトを装着するというドタバタは免れたは幸いだった。




シートベルトの装着が完了すると

いよいよ車のエンジンがかかった。

と同時に、沈むような男の声の曲、バラードがステレオから流れてきた。

女が今朝もこれを聴きながら出勤していたのかと思うと、私の気持ちは複雑である。

夕日を見ながら私たちは、しばらく黙っていた。



女はいつも笑っていて元気なイメージが強かった。

趣味はダンスで、しかもヒップホップ系だと伺っている。

激しく踊りまくり、わぁー!と、歓喜をあげたくなるようなそんな曲が好みだと私は思っていた。

でも人の趣向はわからないものだ。

女の車のステレオから流れる曲はあまりにも寂しげな曲だったので

私は女の知ってはいけない秘密を知ったようだった。




山道を下りて、大きな交差点を抜けてから平坦な道が続く道路を私たちを乗せた車は走った。

夕日が沈み、辺りは薄暗くなってきた。

沈黙を打ち破るかのように

やはり、流れているその寂しげな曲とは裏腹な元気な声で女は息子に話しかけてきた。

「ねぇねぇ!今日はどんなことしてたの~?」

息子が少し間をおいて照れながら言った「うーん、言葉にするの難しい~」

女は言った「へ~、すごーい!言葉にならないほどのことって何だろう?気になるなぁ~」

女はバックミラー越しにニコニコ目を細めてチラッとこちらを見た。



息子は何て言おうか考えながら話しだす。

「んーとね、なんて言ったらいいんだろう。写真、そう写真を撮って紙に貼ってその紙に言葉を書くんだー」

女は最後まで聞こえなかったようだ。ステレオを消して「ごめーん、写真がなんだっけ?」

息子はまた同じことを繰り返し言った

女が言った「へぇ~!おもしろそう!写真何枚撮ったの?」

息子が言った「60枚ぐらいかなぁ~」

女はさも驚いたように「えぇー!60枚も!? 凄~い!」

「なんてない、あるひとりの人の1日を描いたお話なんだぁー」息子が言った。嬉しそうだ。




この後、話はどんどん続いた。

写真は自分でプリントアウトしていること。

それを紙各一枚ごとに写真も各一枚テープで貼り付けて、それから余白に言葉を書き込む。

この作業を13枚まで今日は進めれたと息子は話した。

ニコニコ顔である。

私はあえて二人の会話に入らなかった。

そうしたほうがいいように思えたからだ。

いや、入れない何かがあった。




私の胸のザワつきは、まだ続いている。






~つづく~