「それは、生きるのに十分です」

ドラマで出会った言葉です。

『最高の教師』私はそのドラマをいつも不思議な気持ちで観ていました。ストーリーが不思議なのではありません。ドラマですからどんなに不思議な設定でも、好き嫌いはあっても驚きはしません。不思議を感じたのは、起っている事はとてもハードな問題なのに、主人公はじめ、主要人物たちが、想いのこもった重い言葉を重くなく、感情を交えずに、淡々と言葉を紡いでいるということでした。

 ドラマなのにドラマチックにではなく、重い言葉が淡々と紡がれ届けられるという演出を不思議だと思いながら、観ていました。

 そして最終回、その言葉は私を救ってくれるかのように、胸に届いたのです。

 ストーリーも、主人公が死を選ぼうとした生徒にこの言葉を発した背景も、割愛します。おそらくそのことはそんなに関係ない気がするからです。

 この言葉が、私の胸に刺さったのは、私が、

「ああ~、今日も生きていたくないと思う一日を生きた」と、いう思いで生きている人間だからです。

 そんな日々を重ねているうちに、『生きていたくない人間が、年金をもらい、健康保険を使わせてもらい、介護保険まで使用して生きているのは、社会保障費の無駄遣いではないかと思えて、困ったものだ、一体自分をどうすべきか』と、思うに至っていました。

 ですが、その言葉を聞いたときにハッとしたのです。

 自分にも、生きるに十分なことがあるはずと。

 〈色のない世界で生きている自分が嫌だ。自分の心は動かないし、自分は変われない、このまま生きていたくないと、死を選んだ生徒は、教師に止められ、自分を心配して駆けつけてくれたクラスメートの背後の太陽が、赤く見えた。と、いうことらしい・・・。〉

「自分が変われるかは分らない。だが、クラスメートの後ろの太陽の赤さは、一生忘れられない気がする」

「生きていくには、十分です」ドラマチックな演出なしに、そう語られた。

 私にもある、生きていくに十分なものが、・・。発達障碍児と言われる私の孫。4才の男の子、私はこの子の成長が楽しみなのです。私はこの子がかわいいのです。

 家族がいれば、それだけで十分生きていけると、言いたいわけではありません。この世には天涯孤独な人もおられることを私は知っていますから。

 生まれてきたということは、神様に愛されてこの世に生を受けたということですから。どんな状況であれ(半身麻痺で、古希を過ぎて脊柱管狭窄症で、歩けない恐怖にさいなもうとも)、命があるということは、神様の祝福を受けているということですから。私の場合、いや、誰もが、そのことに感謝できれば十分生きていけるということです。

 ドラマ『最高の教師』の、監督さんは、最後のあの言葉を私たちに届けるために、ずーっと大切な言葉を淡々と紡いでこられたのでしょうか?

 間違いなく、どう生きるか、起こっている事をどう考えるか、自分で向き合い、自分で考えてと言い続けてこられたのです。私たちに・・。ですよね。