何をそんなに頑張っているのかというと・・・。

ただ命ある限り、今日という一日を生きんとしているだけなのです。

あと2ヶ月で、72才、脳出血後遺症を抱えて、15年になります。

 半身麻痺の身体は痛みがまし動きにくくなる一方ですのに、私の日々はまだ厳しいほどにやることがあるのです。

 もういい加減自分の身の回りのことだけで、楽しく暮らさせてくれと叫び出したい程ですが、誰にも言えません。

 私は昨日、東京から電動車椅子で新幹線に乗り、戦々恐々としながら、無事帰ってきたところです。

娘の夫が、2週間の海外出張でした。私は、3・2・1歳児の3人の子を育てながら仕事をしている娘のサポートに駆り出されていたのです。残念ながら、去年、3番目が生まれた時に一月サポートに行った時のように役に立つことはできませんでした。

 去年は2歳だった長女がなついてくれて、三番目は新生児でしたから、半身麻痺の私でも片手でどうにかお世話ができました。

ですが今年は、3人でお母さんの取り合いで泣きわめき、何をするにも「お母さん。お母さん」と、ばあばが手伝うことを嫌がり、パニックになる娘の役に立たなかったのです。苛ついている娘は私にもきつく、早く帰りたいと思いつつ、口に出してはならないと忍耐の17日間でした。

 娘の家は私の身体には合わず、とにかく、耐えて転倒せずに帰阪するよう注意して、頑張りました。

 電動車椅子での電車、新幹線利用も緊張の連続。それは見送ってくれたのが娘だからであり、JRの職員によって対応が異なるから前回のようにはいかなかったからでした。やむを得ないことで、とにかく無事に帰れることだけ祈っていました。

 その帰りの新幹線の中で、94才のおばあちゃんが入居しているホームから電話があり、「病院から、退院なので迎えに来てほしいと連絡があったので、退院の迎えに行って欲しい。車椅子になるとのことなので、その前にお部屋の模様替えに来て欲しい」とのことでした。

退院が決まれば。主治医から私に連絡があることになっていましたので、おかしな話だとは思ったのですが、車中の電話で、私の体ではデッキに移動することもできず、分かりましたと受けました。

 そして今日は朝から、主治医への確認やら、ホームへの連絡やらでした。

 娘のサポートが終わって、2週間はぐうたらして、疲れを取ろうと思っていたのですが、早速におばあちゃんの生活のサポ―トの調整に入らなくてはなりません。退院はまだ調整中で、決まっていないとのことでホームの誤解でしたが、退院が延びれば延びたで問題が発生します。今月いっぱいで退院しなければ、ホームを退去しなければならないのです。来週まで様子見て、退院の連絡がなければ、医療相談員の方に相談しようと思っています。

 そんなこんなで、私にはまだ日々の闘いが必要なのです。疲れているうえに動きにくい半身麻痺の身体を酷使して、「負けるもんか」と日々を戦っています。ただ生きるためにです。

 息子に、「あの世に旅立ち順番を守ってね」と言われていますので・・。私は、おばあちゃんとツレを見送ってから逝かねばならならないのです。「くそ、ついでに孫が成人するまで、私もばあちゃんの年まで生きてやる」と、思っています。目標100才、元気に楽しく生きたいです。それが私の「負けるもんか」なのです。