私は、映画ファンです。週に一度は観に行きたいと思うのですが、

半身が鉛のように重い私の身体では思うようにいきません。映画館へ行くと次の映画の情報が手に入りますから、次はこれ観たいあれを観たいと、心は動くのですが、半身麻痺故に疲れている日々で体は動かず、そのうちに観たい映画が、フェードアウトしていきます。

ですが、『ロストケア』は、上映スケジュールから消える前にどうしても観に行かなくてはと気合を入れて観に行きました。

 どうしても観に行かなくてはと思ったのは、観に行きたいという思いと裏腹に「介護の問題、重いんだろうなあ~。暗いんだろうなあ~、観たくないかも・・」という逃げたくなる気持ちがあって、その反動ゆえにです。

 逃げないでどうしても観に行かなくてはと思ったのでした。

(これから先大いにネタバレします)

 とてもショックでした。私は社会に、いえ、自分がこの国の行政に裏切られていたことを知りました。平日の昼下がりです。観に来られていたのは、5.60代~私と同年代(アラ古希)位のパラパラと10数人の女性ばかりでした。中盤から後半に入ると、すすり泣きの声が聞こえ、私はそれを不思議な気持ちで聞いていました。

 いつもなら泣ける映画の時に他の人のすすり泣きは聞こえないのです。周りより先に私が最初に泣き、自分のすすり上げが一番自分に近くて大きいので、自分だけ泣いて恥ずかしいと思うのに、この日は他の方の泣き声が聞こえるのに、ちっとも悲しくない自分が不思議でした。

 私はただひたすらに腹を立てていました。ロストケアなどとほざくこの男性を人殺しにしたのは、行政ではないかと・・。

 「ロストケア、救いです」と、自分が親身に介護していた42人も殺した男性ヘルパーさんは、何故、殺人者にならねばならなかったのか。

 私の心に強烈に残ったのは、数秒しか映っていない、生活保護受給申請の窓口で、社会福祉事務所職員と思われる、申請受付職員に、あっさり却下される場面でした。

 数秒しか映っていないからこそ問題なのである。やっとの思いで、勇気を出して申請に行ったであろう男性は、何の事情も聞かれずに、

「父親は無理だとしても貴方が働けばいい次の人が待っていますから」と追い払われるのである。

 男で一つで育てられた男性は、父親の介護が必要となり、会社を辞め、小さなアパートに移り住んで介護のため父と暮らす。

 父親の年金は、家賃と水光熱費に消える。認知症で、日常生活ができなくなったうえに動き回るから、目が放せない。働きに出られないのである。そのうちに転倒骨折して、寝た切りとなった父親。貯金は底をつき、一日2食にしていた食事もままならなくなる。

これで何故、生活保護が受けられないのかと思うのだが、この国のセーフティネットは機能しなかった。

生活困窮者にとっての最後の砦は、救いの手を差し伸べてくれるところではなく、いかに受給させないようにするか、話も聞いてくれない、切り捨ての場なのであった。

 映画『護られなかった者たちへ』を思い出しました。この映画で知っていたつもりの生活保護受給の現実の厳しさをあらためて知ったのですが、私はまだ希望を持っていました。この国のセーフティネットをまだ信じていました。

 だから、介護に疲れた娘や息子が、無理心中を図ってしまうその背景にあるのが、経済的にどん詰まった時なのだと知っていても、

繰り返されるそのニュースに触れるたびに、

「何て愚かなことを、死なないでよ。生活保護を受けようよ」と、

心で叫び続けてきたのでした。しかし、この国のセーフティネが機能していないいないのが現実なのだと知りました。私は、映画をまるで、ノンフィクションのように捉えてしまいましたが、そうではなかったとしても、これが現実でしょう。

 先の見えない介護、生活のどん底で、藁をもつかむ思いで尋ねた先で、けんもほろほろに扱われたら、そりゃ~死にたくもなるでしょうよ。ああ~、親を道ずれに自殺してしまうのは、最後の砦で、これ以上惨めな思いをしたくないからかもしれない・・・。

 どん底にいた彼は、穴に落ちたのです。社会の穴。セーフティネットには、大きな穴が開いていたのです。

 穴に落ちた彼は、父親に頼まれ父を殺し、殺人者となっていく。

検事と対面した彼は、「ロストケア」といい。「救いです」と言う。

 殺した彼の行為がロストケアなのではないと私は考えます。殺す以外に方法が亡くなった介護状況がロストケアなのではないでしょうか。そこから救い救われるために、彼は嘱託殺人、父を安楽死させることを選ばざるをえなっかった、ということのようです。

 私は、安楽死、という概念ではなく、尊厳死は認められるべきではないかと考えています。そのための法整備を願ってやまない者です。

 しかし、他国の尊厳死の状況について書かれた著書を読んだときに、1点、受け入れられないことがありました。どんな時にそれが選択できるのかという紹介例に、自分で排泄できなくなり、おむつを使用して、人の世話にならなければならなくなった時、というのがありまして、それは違うだろうと思ったのです。

 介護の介護たるものは、排泄の世話と、認知症の方の世話だろうと私は考えています。「排泄の自立ができなくなったら、尊厳死を選べるというのなら、介護を必要とすれば、死を選べるということではないか、冗談ではない」と、思ったのです。

 ですが今思います。この国のセーフティネットが機能していない悲惨な状況にあっては、寝たきりになれば、尊厳をもって生きられなくなるわけで、排泄の世話になるのを尊厳をもって生きられないとして、尊厳死の選択に入れらるのかなとも思うに至りました。悲しいことですが、何しろ排泄のケアは、人の尊厳にかかわることは事実ですから・・・。

 話が脱線してきましたが、食事介助や、入浴介助をすることで、介護していると言う勿れと、私は考えています。排泄のケアをしてこそ言える「「介護してます」なのです。

認知症の人にも、映画の中の父親のように、意思が明確な時があります。要介護の方が、尊厳死を選択できるようになれば、ロストケア状況はなくなるでしょうね。

 ロストケアに陥らない最後に必要なものは、介護保険でもケアマネージャーでもありませんでした。経済力でした。なんとも納得のいかない話でした。どうすれば、この状況を変えられるのでしょうか?

 せめて、生活保護の受付担当者は、よく話を聞いて欲しかったし、無料で相談に乗ってくれる、ケアマネージャーにつなげてほしかったですね。介護保険施設への入所は、介護保険の利用だけではなく、措置入所もできるはずですからね。

 彼が、聖書の言葉を基に救いと称して、殺人者になってしまったのは、父親を救いとして、殺してしまったことが、間違いではないと信じ続けたかったからではないでしょうか。というのが私の感想です。それを自分の生きるよすがにしてしまったのです。そして、彼をそのような穴に落としたのは、私たちですから、胸が痛み怒りがこみ上げるばかりの映画でした。