映画は観ていません。もう公開された映画かと思っています。日本アカデミー賞でその存在を知りました。私は良く行く映画館で、公開の控えている映画のチェックをするのですが、私の情報網には引っかかりませんでした。もしチラシを見ていたなら、観に行ったかどうか?わかりません。 

 しかし今、PLAN75が、実存していたらいいのにと思います。

そうすればあと3年半ですから、限りある時間を楽しく過ごせそうな気がします。

 生きることに飽き飽きしている私ですから、間違いなくその制度を選択するだろうと思えます。だが選択は難しそうです。同居している息子夫婦や、東京在住の娘夫婦にも、反対され止められるに違いないでしょうから、それを押し切って、選択することはできそうにありませんので。

 75歳を過ぎて、生きる価値を見つけられない人は、死んでもいいよ、という制度は、「高齢になって、生きる価値のない人は死になさい」と、言っているのと同じですよね。

 そう言われれば、反発したくなる気がします。確かに、社会のお荷物ではあります。介護保険制度の受給者ですからね。ですが、「それが悪いっていうのなら、使わんでいいさ全部やめてやる」「確かに社会の役にはもう立たない。生きてるのが無意味に思えるほどに、動かぬ体は辛い。それでも生きてて何が悪い」と、反発したくなります。

 PLAN75の選択は、合法的な自殺に過ぎません。自死だけはしないと、日々を堪え忍んでいる身で、「アホ抜かせ」と、叫びたくなるから不思議です。

 それに、判断能力の亡くなった人は、自己選択できないから、96歳の認知症のうちのばあちゃんのような人や、同い年の高次脳機能障害のツレには選択できません。認知症の人々は置いてけぼりの制度?認知症の人々が選択できなくて、家族が代わりに選択するとなると、合法的な殺人となります。

 ああ~あ、この映画が社会にどんな問題提起していようと、観に行きたくありません。

 PLAN75があればいいのに、と書きたいはずだったのに、観てもいない映画に身につまされて、反発しているアラ古希のばあばは、今日も健在です。

 PLAN75は要りませんが、年齢にかかわりなく、尊厳死を認める法律は作ってください。命を尊いものとして、日々を堪えている身ですから、人としての尊厳を持って最期を迎えたいものです。

 尊厳死の中に、自分で排泄の始末ができなくなって、おむつをして人に排泄の世話になるなら、尊厳死を望むというのがあるのを読んだことがあって、その時は、これは尊厳死を認める条項には入れられないだろうと思っていました。しかし、いよいよ身近な自己の問題となってきて思います。この問題へのアプローチこそが、PLAN75ではないでしょうか?尊厳死法が成立したのちにその中に75歳以上の選択項目を入れてください。

 寝たきりとなり常時おむつが必要で、お嫁さんにその交換の世話にならなければいけなくなったら、希望します。尊厳死の中のPLAN75を選択したいです。ですが、きっとそれも難しい。その選択はお嫁さんが悲しみますから、きっと。ばあばは、家族の中で命をつないでいます。

 そのことを感謝して、今日も生きています。

 PLAN75は、働かなければ、生活できない人が職も住むところもなくなった高齢の女性のお話でしたね。生きましょうよ。セイフティネットを利用して。誰かが彼女の生きられる術に気づいて手を差し伸べてやる希望の映画であってほしいと願っています。

 希望は、人と人とのつながりにこそあるのですから。社会のお荷物となった高齢者が、生き生きと生きているコミュニティこそが希望の源でしょうから。