駅のホームで先頭に並んでいたのに、到着した電車は座れないほど既に満員だったり、七つか八つか頭を眺めながら乗り込んだ車内は、案外空いていて簡単に座ることが出来る時があったり、それを時間帯のせいや駅のせいにするのか、運が良い悪いとして毎回リセットするのか、そんなちっぽけな何かの理由で人生が出来上がっていくような気が、ふっとした。
電車の窓から見える沢山の看板は、沢山の家の屋根とそう変わらなく見える。「深夜一時まで本を買えます。」という文字が見えた。どこで降りたらその本屋さんに行けるのか、周りの景色は見る見る間に変わっていき、私がさっきの本屋へ行くことはきっとないということだけが明確で、屋根や色々な形や色をした文字が目に飛び込んでは、ビルの窓へ吸い込まれていく。
「俺って、おまえと付き合ってたっけ?」
その日も混雑を覚悟した電車が割と空いていて、出入口からすぐの窓側の席に座れた。私はあんたと付き合って無かったんだと初めて知った朝だった。会社に行かなくてはならず、いつものようにトイレに行き、顔を洗い、化粧をし、手馴れた動作でパンストを履き、携帯と財布を確認してから靴を履き駅に向かった。鍵は私の後から何処かへ出掛けるであろう人が、合鍵で閉めてくれるはずだ。いつもと違うとしたら牛乳入りのコーヒーを飲み忘れ、昨日買っておいた朝食用のプレーンのクロワッサンを楽しみにしていたのに食べ忘れたことくらいか。あいつの言ってる言葉の意味を消化するのに胃袋が満腹になってしまったのかな、などと外の景色を見ながら思った。帰ってクロワッサンが無くなっていたら怒ってやろう。
窓に流れ込んでくる景色に変化などないはずなのに、赤だの青だの黒だの黄色だの、物体の色だけが私の意思を無視していつになくガヤガヤと入り込んで来る。
「おまえ付き合ってるやつがいるって言ってただろう?」
「…あぁ、うん、それがどうかしたの?」
「母さんと、どんな人なのか会いたいなって話してるんだ。おまえももういい歳だろ…」
「あ…あー、うん、えっとね、ふっちゃったんだよね…なんかね、あの、車の運転が超下手でさっ、ほら、お父さん運転上手いじゃない?だからさ、なんか男らしくないっていうか、気持ちが冷めちゃって…」
「…そんなことくらいでふったのか?…はは。まぁ、事故を起こされても困るしな。母さんにはお父さんから話しておくよ。」
残念なはずなのに、その理由にまんざらでもなく、納得してくれたようだった。
あいつと車になんか乗ったことなんてない。いつもどうやって会ってたんだっけ?電車には何度か一緒に乗った。電車に乗って行った先はどこだったかちゃんと覚えていない。一度は飲みすぎて酔っ払い電話が来て、迎えに行ったんだった。言われた駅に行ったらいなくて結局いたのは違う駅で、探すのが大変で、帰る頃には電車がなくなってタクシーで家まで帰った。仕方がないやつだと一瞥くれてやりその後はすっかり忘れていた。今頃またじわりと腹が立つ。
帰宅ラッシュの電車がいつもより現実味があって、温度や匂いや気配が私に押し寄せる。声までも聞こえてきそうな錯覚がして、慌てた溜息を静かに吐いた。駅からマンションまで少し足早に歩いたのはなぜだろう。あいつはいなかったけど、クロワッサンは食べられていた。怒ってやらなくてはいけないのに怒りが出てこない。空のパンの袋に手をあて、あいつを確かめる。
冷たくて空っぽの袋にはクロワッサンの香りだけが僅かに残っている。
鼻の奥がツンとして、目頭が熱を持つ。気持ちに不本意な体の反射を振り払おうと袋をグチャグチャにして捨てる。
捨てたのは私。
明日のクロワッサンを買いに玄関へ向かう。ドアノブに手を掛けるのと同時にシューズボックスの上の鏡の中の自分と目が合う。瞳が朝より潤んでいて、あいつには見られたくない。
開け放ったドアから舞い込んだ空気が優しく私を纏う。鼻の奥がまた少し痛むので、息を吸い顔を上げる。廊下の常備灯がうっすら滲んで見えた。瞬きを何度か大袈裟にして駆け足で階段を降りると、エントランスの違和感に立ち止まる。殺風景な空間のはずなのに、にわかに生気を感じる植樹に朝も夕方も気付かずに通り過ぎていた。
葉っぱや幹の息遣いが私に吹きかかる。深緑のまばゆさは電車の窓の景色からは見えない色で、私の瞳にいつまでも留ろうとする。
拒まなかったのは私。
他人に夜を預け、朝を委ね、一人で迎える明日をただただ恐れていた。明日はきっとクロワッサンを食べ忘れたりはしない。私が選ぶ朝が来るから。