クリスマスソングって数々ありますけど、山下達郎さんの「クリスマス・イブ」が聞こえてくると、ひときわ「クリスマスが来たなあ」という感慨が胸に満ちてきます。ずいぶんむかし、1980年代前半にリリースされてJRのCMソングとしてヒットして以来、毎年クリスマスムードがあふれるこの時季になると街全体がこの曲に包まれるようです。

この曲の、「成功」と言っていいでしょう。それからというもの、日本でもクリスマスをテーマにした曲が次々と後追いをするようにリリースされてきました。達郎さんのパートナーである竹内まりあさんの「すてきなホリディ」もそのひとつです。「クリスマスがことしもやってくる」というフレーズは今でも懐かしく思い出されます。

12月も半ば。久しぶりに外出の機会を得て、杖を突ながらマックに入りました。杖をつく羽目になったのは重い荷物を持ち上げるときに、垂直に上げるところを前かがみで持ち上げたためです。そのときは少し負荷がかかったかなという感じだったのですが、手当もせずにやり過ごしていたら翌朝身体が床に張り付いたように起き上がることができませんでした。

余談はさておき、店内に足を踏み入れると「クリスマス・イブ」が流れていました。それも英語バージョンです。

    All alone I watch the guiet rain 

    (ぽつんと雨を見上げてる)
    Wander if t's gonna snow again  

    (やがて雪にかわるのだろうか)
    Silent night, Holy night
    
    i was praying    
    you'd be here with me   

    (きみがそばにいたらいいのに)
    But Christmas Eve ain't  

     (ひとりきりのクリスマス・イブ)
    what it used to be 
    Silent night, Holy night   
    
    If you were beside me     

    (そばにいてくれて)
    Then I could hear angels   

    (天使のような君のささやきに)
    And I'd give you rainbows, 

     (きみへの想い、かなえられそう)
    for Christmas (Alan O day) 
            (省略)

     <山下達郎> 詞

 雨は夜更け過ぎに
 雪へとかわるだろう
 Silent Night, Holy night

 きっと君は来ない
 ひとりきりのクリスマス・イブ
 Silent Night, Holy night

 心深く 秘めた想い
 叶えられそうもない
 必ず今夜なら
 言えそうな気がした (略)

英語バージョンは山下達郎さんの原曲の詞とは少し趣が違いますね。達郎さんの詞を直訳したのではなく、曲想をもとに新たに英訳を施してみたという印象です。冒頭の「雨は夜更け過ぎに 雪へとかわるだろう」というところの、時間の移ろいが英訳ではすっぽりと抜け落ちています。それにrainやsnowはいいとして、なんですか、angels それにrainbowsとは。これ以上のダメ出しはこのくらいにしておきましょう。

それにしても、日本では「Happy Birthday」はごく自然に口にできるのに、「Merry Christmas!」となると、どうにも照れくさい。冗談めかして言うことはあっても、どこか本気になれません。自虐的に「ひとりきりでクルシミマス」とつぶやくほうが、案外しっくりいく気がします。だからこそ、歌の中では思いっきりクリスマスの雰囲気を味わい、粋でおしゃれな世界(fashionable style)に憧れるのかもしれません。

なにが言いたいのかと言えば、クリスマスソングは、数多く産み出されてきましたけれど、定番として心に残り続けるのは、やはり「クリスマス・イブ」だっていうことです。そういえば先だってのこと。40年の長きにわたって歌い継がれた功績が認められ、ギネスで長寿クリスマスソングとして認定されたそうです。スゴイ!ね。

"Last Christmas"や“Wish upon this Chritmas night”、それから"Under The Christmas Moon" by Enrique Iglesias & Shakiraなども素敵ですけどね。
  <良い年をお迎えください。Masa>

 

 

今年八月のファミリーコンサートで、実はこの『舟歌』を余興としてやろうと密かに企んでいた。コンサートは三部構成で、第一部がクラシック、第二部がポップス、第三部がセミプロ級の演奏という豪華絢爛というか盛りだくさんである。つまり先生方の演奏で全体をキュッと引き締める、という狙いもあった。

ところが蓋を開けてみれば、そんな気遣いはまったく不要で、第一部も第二部もみな練習の成果を出し切り、終わってみれば、「いやぁ、やり切ったね」といった顔で小ホールを後にしたのだった。第二部と第三部のあいだには、お茶とお菓子でリラックスタイムといった小休止があり、ここに余興を入れるつもりだった。

余興には候補が二つ。一つは昔流行した「電線音頭」。もう一つが「舟歌」だ。あまりにもふざけすぎるのは考えものだということで「電線音頭」をはずし、「舟歌」を採用しようとしたのだが、これも受け狙いがはずれそうな気がして、結局は計画倒れとなった。ぼくが考えていた口上はこうである―。

「これから、ベートーヴェン作曲、シューベルト編曲による『舟歌』をお贈りします」

と神妙に告げたあとで、出席者には手拍子で音頭を取ってもらう。みな、「え? そんな編曲あったっけ?」というポカンとした表情になる。ベートーヴェンが作ってシューベルトが編曲。そんな話、音楽史の裏ページにも載ってない。(じつはこれ、「男はつらいよ」のパクリなのだが)

それでも、こちらが音頭を取ればそれにつられるように手拍子が始まる。「電線音頭」なら「ヨヨイノヨイ」とでもいくところだが、舟歌では単調な手拍子。しかもその手拍子に乗って、いかにも海にまつわる厳かな歌曲でも歌われるだろう、と一同が予想しているところへ、威勢のよい唄が始まる。

出てきたのは、よりによって北海道民謡の「ソーラン節」である。みんなの期待をのっけから裏切る選曲だが、この唄、手拍子にぴったりはまるから余興にはうってつけ。気づけば客席もつられて「ハイハイ」とノッてしまうのだからおかしいと言えばおかしい。

ヤーレンソーラン ソーラン ソーラン
ソーラン ソーラン ハイハイ

鰊(ニシン)来たかと かもめに問えば~
私しゃ立つ鳥 波に聞け チョイ
ヤサエー エンヤ~サ~ノドッコイショ
ハードッコイショ ドッコイショ

みな呆気にとられつつも、ずるずると手拍子を続ける。まあ、だいたいこんな調子で進めるつもりであった。だが、多分しらけるだろう、という予感が実行を踏みとどまらせたのである。

なお、この「ソーラン節」に出てくる鰊(ニシン)は春の季語で、ニシン漁の始まりを暗示している。春といえば初ガツオが幅をきかせていて、ニシンのほうはちょっと影が薄い。

しかし侮ることなかれ。ニシンは保存食として「身欠きニシン」という干物にされ、甘露煮に加工されて冬場には数の子とともに食卓で存在感を放つ。昔は大量に獲れすぎて肥料にまでなった。それが京都に送られると見事に「にしんそば」へと転化した。

その身欠きニシンの甘辛煮を取り寄せ、温かいかけそばの上に乗せて、じっくり味わうことにした。ニシン来たかと~~♪と、唸りながら目の前のニシンを箸ですくい上げる。それを口の中に入れてかみしめる。口の中で身がホロホロとくだけ溶け、溶けるほどに甘辛い幸福感に包まれる。
 

 

食の嗜好が変わったというわけでもないが、最近はうどん、それも温かいうどんへと気持ちがなびいている。季節の変わり目に衣替えをするように、身体が温かいものを欲している。朝食は、丸干しか鮭の切り身に納豆と目玉焼き、サラダに味噌汁と決まっていて相も変わらない。

この晩秋になって、夕飯はいよいよ鍋の出番となった。今日で三回目である。今月はおでんも一度食卓に上った。鍋といえば、白菜に春菊か水菜、椎茸やえのきなどのきのこ類。さらに太めの斜め切りにしたネギなどを鍋いっぱいに盛る。一人用の鍋では限界があるが、充分煮込めば全体がシュリンクしてくるので、具は多いくらいがちょうどいい。

頃合いを見て鶏団子や鱈、鮭を投入したり、豆乳ごまだれの湯に鮭を泳がせれば石狩鍋の出来上がりである。ときには奮発して牡蠣鍋にすることもある。もっとも、今年の牡蠣鍋の出番はかなり控え目になりそうだ。瀬戸内海産の牡蠣が、何らかの影響で激減しているという話を耳にした。

日本酒をちびりちびりとやり、はしで具材をつっつく。〆にラーメンかうどんを入れて腹を満たせば、家吞みだって悪くない。女房という話し相手の異性人がいないぶん、食事に集中できる。負け惜しみに聞こえるかもしれないが、独り身の居心地よさを味わうと周囲が気遣うほど孤独は感じないものだ。煩わしさもなく、気楽である。これで腹いっぱい食べ、眠りに落ちてそのままあの世に行けるなら本望だろう。おあとはよろしく。

朝食べたばかりだというのに、夕飯のことを考えていたら、いつの間にか昼になっていた。昨日の昼はうどん、それもカレーうどんだった。刻んだタマネギを中火で炒め、豚バラを加えたら火を細める。小鍋で沸かした湯に、いりこの出汁と炒めた具を入れ、十五分ほど煮て和風のカレールウを溶かす。

次に市販のうどんを袋から取り出し、熱湯で二分ほど茹でて丼に上げる。蕎麦屋のカレーをイメージして、溶かしたカレーに醤油大さじ一杯を加えて煮込み、茹でたうどんにかければ出来上がりだ。熱いうちに一本二本と麺を箸でつまんで口へ運ぶ。そばとは違い、食感はなめらか。しかし、思ったほどのコクが出ていなかったので残念な気分になった。

そこで、二、三年前の記憶をたよりに山手線・目黒駅まで足を伸ばした。東口を出て百メートルほど歩くと、目指すうどん屋「こんぴら茶屋」に到着した。午後の一時半である。席は埋まっていて10分ほど外で待たされた。待つあいだに渡されたメニューを見て、カレーうどんの正体を再確認する。肉は豚ではなく牛であった。

四人席の二人分が空き、そこへ案内された。座りながら首巻きを解く。寒さを感じて家を出るときに巻いてきたものだが、日中は十六、七度で寒いというほどではない。本来なら十二月に入ってから巻くものだ。季節外れで野暮ったく見えたのか、前に座っていた中年紳士がよそ者を眺める目つきである。

なるほど、目黒は客層が洗練されているらしい。ぼくの住む世田谷に、目黒から引っ越してきた人が「世田谷は少し野暮」と言っていたが、うどんをすする姿を見ても、買い物ついでに立ち寄った客やうどん目当てに入店した勤め人でさえどこか小ぎれいなセンスをかもしている。

カレーうどんを前に、ペーパーナプキンを首にかける所作も皆一様にこなれている感じだ。出汁はいりこ、昆布、鰹。牛肉は適度に柔らかい。うどんは小麦と塩と水のみ。品種は定かではないが、コシがあり、市販品とは別格の食感である。汁には味わいのあるコクが口腔に広がった。老舗茶屋の「かれいうどん」を十二分に堪能し、カレー臭を散じながら店を後にした。
 

 

むかし―といっても記憶の中では十五年か二十年年ほどまえの事になるでしょうか。後期高齢者の今になってみれば、五十代代後半から六十代前半という計算になります。が、実際のところ、株とか先物取引をやっていた頃というのはもっと熱気のある若い時分であったわけで、四十代後半から五十代前半にかけてだったように思います。

当時は今のように個人情報の扱いが厳しくなかった時代でした。金融機関を介せば、個人情報など簡単にのぞき見できるような“ノー天気なダダ漏れ時代”。うちのように財産があるわけでもない家庭にまで、証券会社や投資会社から固定電話あてに、頻繁に投資の勧誘電話がかかってきていたのです。

そんな中で一風変わった投資話を持ちかけられたことがありました。それも先物というモノを介して売ったり買ったりして利ざやを稼ぐ仕組みの投資法です。最初は数万という単位の売買です。たとえば証拠金の10万円を入れてモノを買うと将来の価格変動に左右されず。取引時点の価格で売買が成立。期日が来て、モノが11万になっていれば1万のもうけになるというカラクリです。10万円の証拠金をテコに100万円を借りられるレバレッジ取引が出来たりもします。

もちろん、損が出た場合は「追い証(おいしょう)」として追加の資金を差し入れねばなりません。追い証で一千万円、当時で一億円ともなれば、まさに身の破滅。一種のギャンブルですが、投資会社はその“負の側面”をあまり語ろうとはしませんでした。

株にしろ先物にしろ、ギャンブル体質のひとはこういうもうけ話にはのめり込みやすい。勧める側も言葉巧みに誘導しますからつい本気モードにさせられてしまうというのは人間の弱みで、こればかりはどうすることも出来ないようです。

取引の対象はコーヒーの「アラビカ種」でした。潤沢で余裕のある資金があったわけではありません。老後のことはまったく考えない現役世代でしたから、少しお金がたまるとキャバクラへ、というよりも投資のほうが知的な刺激があり、楽をしてお金を増やしたいという欲求も勝っていたのでしょう。もっともホースレースも趣味のひとつでしたから大きなレースが開催される時は競馬場によく足を運んだりもしていました。ということは自分自身もれっきとしたギャンブラー体質であったわけです。

さて、コーヒーの話でした。現在カフェの手伝いをしていることもあって、ことコーヒーに関してはアンテナを張っていろいろな情報を集めたりしています。でも、集めてどうするんだという感じです。ラーメンもそうですが、コーヒーもご多分にもれず、多種多様で競合も激しい。

コーヒーと一口にいっても、「コーヒーちょうだい」「はい、どうぞ」というツーカーの関係にはなりえません。ブレンド、カフェラテ、ミルクコーヒーあり、キャラメル、ノンカフェイン、エスプレッソ‥‥。まず何を選ぶか、そこから始まります。

さらに、モカ、キリマンジヤロ、プルーマウンテンなど各社競って品をそろえています。ただ、この嗜好品も地球規模の気候変動によって、現状、リスクにさらされています。コーヒーベルトと呼ばれる赤道直下の生産農場では気候変動により収穫が減少しているといいます。今後二十年から三十年の間にアラビカ種の産地は半減、生産量は激減するという予測です。

気候変動に耐えうる品種の改良は待ったなしと言われていますが間に合うかどうかは未知数です。「コーヒーのない朝なんて」とおっしゃるコーヒー愛好家のかたにはお気の毒ですが、やがてコーヒーが飲めなくなる日が来るかもしれず、いやそうでなくても、べらぼうに高いコーヒーしか飲めない日がくることを、今から覚悟しておく必要があるのかもしれません。

 

オーナー宛に発注していた新そばが届いたとの連絡が入った。
十一月になったら新そばをメニューに入れてみてはどうか―そんな話を前々からしていたので、こちらも早速準備を急ぐことになった。今日はスタッフを交えてのリハーサルの日である。

道具だけは初期の段階で揃ってはいたものの、手順や、そもそも薬味には何を使うかといった基本的な準備は手つかずのままだった。
「そこはよそ様の真似をすればいい。普段からそば屋を利用していれば自然と体得できているはずだ」

それがオーナーの認識である。

しかし、「手打ち蕎麦」の看板を掲げるとなれば、そば粉の選定から、つなぎに使う小麦粉の割合、さらに肝心要のつゆの作り方まで習得しなければならない。それには二、三か月はかかるだろう。修行を経ての開店、そんな段取りを想像すると、「いつやるの」という課題を抱えることになる。

オーナーの思いつきとはいえ、蕎麦をメニューに加えることは、ぼくにとって願ってもないことだった。
蕎麦の食べ歩きは得意だが、今度は主客が逆転して、作る側に立たされる。音楽にたとえれば、聴く側から演奏する側へと回るようなものだ。普段、家で楽器を奏でているのと、発表会やコンサートのステージに立つのとでは、心構えの次元がまるで違う。

この日のために、蕎麦製造元から直接商品を取り寄せ、試食しては点数をつけ、候補を絞り込んできた。そんな折、たまたま池波正太郎について書かれたエッセイを読んでいたら、その中に蕎麦を所望する場面があった。干しそばなら「どこそこのが一番うまい」というくだりで、その部分だけは記憶に刻まれていた。好きな蕎麦のこととなると、物忘れの激しいぼくでも覚えていられるのだ。

生業を始めるとき、その干しそばを使ってみようと考えた。
以前、初代家政婦さんにお歳暮として贈ったとき、「今まで食べた乾麺でいちばん美味しかった」と感想をいただいたことがあり、それが決め手となった。

そばはもちろんのこと、そばつゆもおろそかにはできない。
「空腹が最高の調味料」とはよく言うが、空腹でなくとも、つゆの善し悪しで蕎麦の評価の大半は決まってしまう。
このつゆについても、オーナーは「赤字覚悟で行け」という方針である。どうかしているのではないかと思う。

ならば300ccで1000円のものはいかがでしょう、と申し出るつもりでいる。
三倍に希釈すれば900ccとなり、一人前100ccとすれば九人分がとれる計算だ。
一杯あたり約100円。そばは配送料込みで100グラム300円。薬味を加えれば仕入れ値はさらに膨らむ。

セイロ一枚の売価が600円。これではワンオペでも採算割れになりそうだ。スタッフの人件費もべらぼうに上がっている。この現実を伝えたら、オーナーはどんな反応を示すだろうか。きっと「Oh, No!」と頭を抱えるにちがいない。
そんな姿を想像すると、口が裂けても言えなくなる、「そんな気がする秋の空」である。