私の母と不運というパートナーがおしえてくれたもの

1、母としての闘病。

 1982年、私は予定日よりも早く未熟児として生まれた。夜鳴きがひどく、母は夜中寒さに体を震わせながら、外で私を寝かしつけた。父が、眠れないからだ。この時点で、母は疲れていた。子育てといっても、今のようにイケダンがもてはやされる時代ではなく、家事や子育ては妻の仕事という時代だったし、姑との同居も心が折れる理由だったのだろう。

 ある日、母は父の設計した父の実家の2階で私を抱いて飛び降りて死ねないものかと真剣に考えた。下にはコンクリートでできた駐車場がある。でも、母は、私に積みはないと、死ぬことを諦めた。そして、父と母はアパートを借りた。母にとっては、姑との同居が終わる安堵と勝手に家を出るという行為に対する罪悪感があった。

 そして、父には、内緒で姑に手紙を出した。今住んでいるところの住所だった。

 そのやり取りの手紙には、姑が母に自分の孫を頼むと何度も記していた。

1984年、父の仕事の関係で家族でまた引っ越した先で、弟が生まれた。

 小さな弟はとっても、可愛く思えた。父は相変わらず、子育てには無関心だった。

1986年、私の高熱に気づく。

 自動車免許をもたない母は慌てて父に頼んで、私を近くの小児科に運んだ。医者とは冷たい。

点滴をし、高熱に苦しむ我が子を前に、医師は、

「このような状態見たことも聞いたこともありません。なす術はありません。ここ1週間が山でしょう。」

 と、あっけなく言った。いや、そう聞こえただけかもしれない。

もちろん、4歳の私は高熱に苦しむだけ。点滴のし過ぎでさせる場所がなくなった。

 父は、ただ、病院に通い続けた。弟は、昼間は父の母に預けられ、父が帰ってくると父から離れなかったそうだ。

 でも、母は諦めていなかった。寝る時間もお風呂に入る時間も全て私につぎ込んだ。絶対に治してみせる。

 その意思は固く、私の入院中の記憶では、いつも母がいた。

そして、予定の1週間は過ぎていた。なおも原因不明のままだし、生死をさまよう状態に変わりはない。

 それから数ヶ月・・いや、1年ぐらいの闘病生活が続いた。



ある日の朝、母が私に触れると熱が下がっていた。

 医者曰く、奇跡の生還らしい。その医師は私の病気の研究を発表し、有名な医師になったとか。

 しかし、生死にかかわる状態を脱しただけで、これからも油断できないのが現実だった。もともと食の細い私に食事を食べさせるため、母は、お子様ランチやクレープ、アイス、ジュースまでも手作りしていた。

 当の私は理由も分からず、太陽に直接当たらない用にと帽子をかぶせられたり、スポーツというスポーツは禁じられていた。

 でも、子供にとってスポーツは遊びだ。私の子供の頃は、現在のようにゲームもインターネットもなかった。外へ出ることが遊びだったのだ。

 当時、隣の家に住んでいた1,2歳年上のお兄ちゃんが大好きだった。

お兄ちゃんは、文字を教えてくれたり、できるだけ室内で一緒に遊んでくれた。

 でも、お兄ちゃんが別の友達とサッカーに行くときがあった。

今思えば、男の子と女の子の違いだったのかもしれない。でも、当時の私には、それすら理解できず、いつもお兄ちゃんについていった。

 いつも木陰でお兄ちゃんたちがサッカーをするのを見ることしかできなかったけど、いつも室内にいなければいけなかったから、見ているだけで楽しかったのだ。


 ある日、いつものように木陰でサッカーをするお兄ちゃんを見ていると、雨が降り出した。お兄ちゃんは、きっと母に私が雨に濡れたら入院しなきゃいけなくなると聞いていたのだろう。慌てて、お兄ちゃんは木陰へ走ってきて、自分の上着を私に被せて、私の家まで送り届け、母に怒られていた。

 お兄ちゃんは、もっと雨に濡れていたのに、私は、お兄ちゃんにごめんなさいもありがとうも言えなかった。

 翌日、お兄ちゃんに会いに行くと、お兄ちゃんの母親が前日私を外へ連れて行ったことで母親に怒られているところだった。

 なんで?

私は、怒られないのにお兄ちゃんは怒られるの?

当時の私の気持ちはその程度だったと思う。

 そして、お兄ちゃんにごめんなさいと言うと、お兄ちゃんが謝った。

私が外出してはいけないことを知っていたのに、連れて行ったのはお兄ちゃんだから。

 そして、お兄ちゃんは外出禁止になり、しばらくは会えなかった。

何で、大人はお兄ちゃんだけを責めるの?

答えは簡単だ。1,2歳年上でもお兄ちゃんは、年上だったからそれくらい理解できるでしょうとのことだ。

 私は、この時、大人を嫌いになった。

唯一外出が許される花火の日は、浴衣を着て、お兄ちゃんに手をひいてもらって、大人が通れない道を通り抜けるのが大好きだった。

 きっと、小さいながらに大人に反抗していたのだろう。

それと、小さな淡い恋心をお兄ちゃんが満たしてくれていたのだ。


 病弱な私は、いつもお兄ちゃんのお荷物になっている気がしていたが、

大好きなお兄ちゃんの言うことだけはどんなに嫌でもきいていたから、お兄ちゃんは可愛い妹として私を見ていたのだとおもう。




お兄ちゃん、いつも私を守ってくれてありがとう。嫌がらずにそばにいてくれてありがとう。怒られても、私を責めないでくれてありがとう。