阿部さんの記事の中に、必要な思考とそうでない思考との説明が書かれていました。

同じ様な事をエックハルト.トールも言ってたと思います
人類の最初の頃は必要な時に思考を使っていたのが
いつの間にか思考中心の生活になっていった、、、とか。

ここでの説明で思い出したのが、先回阿部さんが言ってた自我の必要性。

自我も思考も生きる上で欠かせないものとしての本来の意義があるのに、
人類はいつの間にか、、、度を越し、そのバランスを崩していったのでしょうね。。。

そんな歴史の中で生まれてきた私なんだな~、、、と思います。
でも、いまここ、、という真実は常に常に今あるんですよね。。。


以下は抜粋です。

http://abetoshiro.ti-da.net/e7120557.html


今日は思考について書いてみます。

禅や仏教では無思考を奨励していますが、思考には大きく分けて2つの種類があると思います。

ひとつは機能としての思考です。

たとえばいま、僕は思考について説明しようとしていますが、思考を思考することによって、書き表し方を工夫しています。

書こうとする意思も思考であり、思考がなければ生産的な計画も立ちません。

このような思考は生きる上で欠かせないものです。


もうひとつの思考は、想念と呼ばれるものです。

終わってしまったことをくり返し思い出してみたり、先のことに対して不安を感じてみたり、ありもしないことをとりとめもなく考えている状態です。

大抵の場合は不機嫌になっていきます。

なぜなら先のことは不安を招きますし、終わったことは悔いても取り返しがつかないからです。


無思考を勧めるのは、主に後者の思考についてです。

そして多くの人の日常は、後者の思考によって9割以上が占められています。

もしこちらの堂々巡りの想念を手放せたとしたら、そうやってできた空いた時間をどれだけ有意義に使えることでしょう。


有意義というのは有用ということではありません。

一件無用に見える何もしていない時間は、我々の生命エネルギーを充足させ、真実の自己にくつろぐ素晴らしい時間であり、最も有意義な時間です。

そして必要な時に思考を使っていくのです。


こういう基本的なことを誰も教えてくれませんでした。

だから我々は、いつのまにかとりとめのない思考の世界に暮らすことを習慣化してしまったのです。


この習慣をチェンジさせるのは、思われているほど難しくありません。

ただ、あまりにも思考に取り込まれてきた年月が長いので(たいていは物心ついてからずっとそういう状態にあります)、すぐにまた元の状態に戻ってしまうだけです。


この事は禅スクールでもレッスンしていきますが、スクールに参加しなくても、今日の記事に何かを感じたら、自己チェックしてみてください。

そして、また想念に浸かっている自分を見つけたら、そこから抜け出てきましょう。

その繰り返しが修行です。


すべての思考が要らないのではないということを伝えたいと思いました。