前回で、Dangerous ツアーを辿りながらの長い議論が、漸く終了した。これほど大変なことになるとは、書き始めたときには夢にも思っていなかった。

このまま History に突入してもいいのかもしれないが、もう一年くらい掛かりそうなのでやめておくことにする。これ以降はより雑駁に、関係するテーマを適宜採り上げて行きたい。

最初に大きなテーマを論じておこう。それはマイケル・ジャクソンの存在構造である。私は彼の作品を分析しながら、彼自身のライフヒストリーについての事実も集めてみた。参考になることは多々あったが、どちらかというと、目が曇ってしまうことも多かった。そのなかで何が重要かについて考えているうちに、その三層の存在構造を見いだしたのである。

第一層は「マイケル・ジャクソン氏」である。これは生身のマイケル・ジャクソンのことである。私見によれば、人間の身体というものは、細胞によって構成されているのでは<ない>。なぜなら、たとえば、細胞を素材としている心臓が使えなくなっても、人工心臓を入れるととりあえず死なない。細胞によって構成されていると考えると、この事実を説明できないのである。

あるいは細胞要素説に立つと、たった今、死んだばかりの死体と、死ぬ直前の生きている身体との見分けがつかなくなってしまう。というのも、両者の細胞の構成はほぼ同じであって、どうしてこちらが死んでいて、あちらが生きているのか、見分けがつかないのである。

では何で構成されているのかというと、細胞間のコミュニケーションによって構成されているのである。端的に言えば、細胞間コミュニケーションの生み出すダイナミックな構造が身体である。細胞間コミュニケーション要素説に立つことで、上のような問題は解消される。

すなわち、同じ細胞の塊があっても、その細胞間のコミュニケーションのが途絶えていれば、死んでいるのである。あるいは、心臓の細胞が無くなっても、その代わりにとりあえず情報をやりとりしてくれる機械が挿入されていて、代替的に機能してくれるなら、細胞間コミュニケーションの全体の形は大幅な変更を被らざるを得ないとしても、その全体パターンの再生産が維持されるなら、死なないでいられる。

それゆえ、マイケル・ジャクソン氏とは、彼の身体の素材となっていた細胞間コミュニケーションのある動的構造のことである。この構造の特徴は、音楽・ダンス・映像の恐るべき才能を持っていて、生きている限り、それを放出しつづけるように運命づけられていた点にある。この点を彼自身は、「リズムの奴隷」とか「音楽のわき出す泉」とかいう形で表現していた。


第二層は、「マイケル・ジャクソン」である。これはマイケル・ジャクソン氏が形成した他者とのコミュニケーションの総体を言う。そのなかで最も重要なものは、言うまでもなく、彼の作品である。

社会の要素は何かというと、これまた人間ではない。そうではなくて人間同士のあいだのコミュニケーションが要素である。社会とは、コミュニケーションが動的に形成する構造のことなのである。これはここ三十年くらいの社会学の最も大きな発見であった。

たとえば「東京大学」という社会的構造について考えてみよう。これは東大生とか東大教員によって構成されるのではない。「東京大学」に関連する人々のコミュニケーションの総体が東大なのである。教師が教師として振る舞い、学生が学生として振る舞ってはじめて東京大学なのであり、かつての東大紛争のように、それとは全く異なったコミュニケーションが展開されていた状態では東大は存在しなくなりかかっていた。東京大学という構造にとって何より重要な学部入試が実施されなかったことがその瀕死状態の最大の徴候であった。東大に限らず、社会全体がこういったコミュニケーションの構造化によって成り立っている。

マイケル・ジャクソンとは、マイケル・ジャクソン氏周辺に構成されていたコミュニケーションの総体のことである。


第三の層は、「マイケル・ジャクソン現象」である。これは、マイケル・ジャクソンに関するコミュニケーションの総体である。もう少し丁寧に言うと、マイケル・ジャクソン氏によって生成されたコミュニケーションの総体たるマイケル・ジャクソンに関して、マイケル・ジャクソン氏の居ない所で形成されたコミュニケーションの構造化されたものが、マイケル・ジャクソン現象なのである。

このブログは、マイケル・ジャクソン現象の一部を構成するコミュニケーションである。より正確に言うと、このブログを通じて形成される、私と読者との間のコミュニケーションが、マイケル・ジャクソン現象の要素なのである。

第一の層は、誠に残念ながら昨年六月に消滅してしまった。第二の層は、現在も様々の作品の形で生成され続けている。あなたがマイケルのCDを聴くなら、それは第二の層のコミュニケーションを生成していることになる。なぜならコミュニケーションとは受け手がするものだからである。受け手が受け取り続ける限り、コミュニケーションは生成され続ける。この意味で第二層は死んでいない。

第三の層は、マイケル・ジャクソン氏の生前は碌な物がなかった。大半はタブロイドジャンキーどもの流すジャンク情報で埋め尽くされていたからである。しかしマイケル・ジャクソン氏の死によって、ジャンク情報の生成は急速に消滅し、「マイケル・ジャクソンについての語り」が津波のように沸き上がってきた。それは映画 This Is It によって決定的なものとなった。ある意味でこの層は、彼の死と供に真の意味で始まったと言うこともできる。

マイケル・ジャクソン氏は生前のインタビューで、自分は作品によって死を乗り越えるのだ、といろいろなところで発言している。彼のこの望みは見事に実現された。第二の層はこれからも発信を続けることが確実であり、それを通じて第三の層は益々活発に展開しつづけるであろう。おそらくは、数世紀の時を越えて、形成されつづけるに違いない。

マイケル・ジャクソン氏のライフヒストリーについて言えば、第二層の形成に関する部分のみが重要だ、ということができる。それ以外のことは、あまり気にする必要はない。

この三層は、マイケル・ジャクソンのような天才については非常に明瞭である。しかし我々のような凡人にとっても、薄いとはいえ三層は立派に存在している。これらは相互に依存し合う不可分の層であり、第一層が命であるとするなら、第二層も第三層も命を持つ。

生きている間(第一層がある間)というのは、第二層を仕込む時期だと言うことさえできる。その層をしっかり作っておけば、細胞間コミュニケーションが途絶えても、第二層のコミュニケーションは生成され続ける。たとえば私の死後に私の本を読んでくれる人がいれば、それは第二層が生きていることを意味する。たとえばあなたの死後に、誰かが「あいつはいい奴だったなぁ」と酒を飲みながらネタにしてくれたなら、第三層が生成されていることを意味する。

立派に生きるとは、第二層を十分に仕込むことなのではないだろうか。しっかりとした意味のあるコミュニケーションを採り続けることが、人間に課せられた使命なのである。そうすると第三層が形成されて、死んでも生ることが可能となる。こうして人間は、マイケルのように、死を乗り越えることが可能となる。そこからが本当の人生なのかもしれない。

私が「マイケル・ジャクソンは救世主だ」というのは、この壮大な第三層を見て思うことである。死後にこれほどの巨大な津波のようなコミュニケーションを世界じゅうで引き起こすというのは、普通の人間の仕業ではない。「マイケル・ジャクソン氏」の死は、「マイケル・ジャクソン」を通じて、「マイケル・ジャクソン現象」という巨大な生命体を産み落としたのである。これはまさに「復活」である。復活することがメシアの指標であるとするなら、まさにマイケル・ジャクソンは救世主なのである。

(了)