昔の私は、何か苦しいことが起きるたびに、理由を探していました。
どうして、こんなことが起きるんだろう。
どうして私ばかりなんだろう。
ただ「起きた」というだけでは、受け止められなかったのかもしれません。
そこに何か理由があれば、この苦しさにも意味があるような気がしていました。
だから、自分に起きていることを説明してくれるものに惹かれていました。
「だから、こんなことが起きたんだ」
そう思える言葉に出会うと、少し安心しました。
起きたことは何も変わっていないのに、理由が見つかっただけで、少し受け止めやすくなる。
今振り返ると、私は答えを探しているつもりだったけれど、本当にどんな答えでも知りたかったんだろうか、と思います。
たぶん、そうではなかった気がします。
自分が納得できる答え。
少し安心できる答え。
これ以上、自分を責めなくて済むような答え。
そんなものを探していたのかもしれません。
私は、答えが欲しかったんだろうか。
それとも、安心できる答えが欲しかったんだろうか。
それでも、その頃に出会ったものを、今になって間違っていたとは思いません。
そのときの私には必要だったものもあったし、知ったことで楽になったことも、見え方が変わったこともありました。
ただ、いろいろなものに触れているうちに、少しずつ気になるところが変わっていきました。
以前は、「この出来事には、どんな意味があるんだろう」と考えていた。
それがいつの間にか、「そもそも私は、どうして起きたことに意味を求めているんだろう」という方が気になるようになっていました。
何を怖がっているんだろう。
何を「こうでなければ」と思っているんだろう。
なぜ、この答えなら安心できて、別の答えでは安心できないんだろう。
答えを探していたはずなのに、いつの間にか、答えを探している自分の方を見ていました。
そして、もうひとつ変わったことがあります。
いつの頃からか、以前のように「どこかに答えがあるはず」と追いかけ続ける感じが、少しずつ薄くなっていきました。
答えが見つかったというより、答えを探し続けるエネルギーの方が、先に落ちた。
何かひとつの答えにたどり着いたから、という感じでもありません。
本で読んだことが、ずっとあとになって自分の体験とつながることがありました。
頭では知っていたことが、実際の出来事の中で「ああ、本当にそうなんだ」と腑に落ちる。
そういうことが、少しずつ重なっていきました。
どれだけ考えても、分からないことはある。
人のことを、すべて理解することもできない。
まだ起きていないことを頭の中で何度考えても、その通りになるわけでもない。
そして、苦しさから抜けたくて始めたはずの答え探しが、いつの間にか、それ自体を苦しく感じさせることもありました。
だからといって、答えを探すことが悪いとは思いません。
探したからこそ見えたものも、たくさんあったからです。
ただ、昔のようには追いかけなくなった。
やめようと決めたわけでもないのに、気づいたら、前ほど追いかけていませんでした。
昔の私は、答えが分かれば安心できると思っていました。
でも、今こうして振り返ってみると、少し違って見えます。
私は、答えが欲しかったんだろうか。
それとも、安心できる答えが欲しかったんだろうか。
たぶん私は、答えそのものより、
「これなら大丈夫」
と思える何かを、ずっと探していたんだと思います。
短い動画でも、同じテーマを綴っています。