ネタバレあり
ミヒャエル・エンデの小説『はてしない物語』を『U・ボート』のウォルフガング・ペーターゼン監督が映画化作品。
なんだか不意に見直したくなりました。
公開当時、先に小説を読んでいた自分は、この映画の公開をわくわくしながら待ちわび得ていました。
リマールの主題歌のPVも、楽しみに拍車をかけました。
いざ公開となると、原作と比べていろいろ気になる点はありました。
バスチアン、小太りじゃないんだ。(バレット・オリバーは底意地の悪そうな顔をしていて好感がもてませんでした)
アトレーユは髪をひとつに束ねてないし、オリーブ色の肌じゃないんだ。(ノア・ハザウェイは女の子みたいな綺麗な少年です)
フッフール(映画ではファルコン)って犬みたい。
あのシーンも、あのシーンもカットしたのかー。尺があるからしょうがないけど…。
お告げどころのスフィンクス、目から光線だしとる!
お告げどころのウユララは声だけの存在じゃないし、会話するときも韻を踏まないんだー。
虚無が大嵐みたいだなー。
などなど。
イメージと違うシーンもあるけど、エルフェンバイン塔が現れるシーンや、モーラなどはよくできているし、アトレーユがフッフールの背に乗って飛ぶシーンは、今観ると稚拙な合成だけど、高揚感がありました。
そして、何より、幼ごころの君の登場シーンが好きでした。
エンデは、日本の十二単のお姫様をイメージしていたので、この西洋風のお姫様の姿にがっかりしたようですが、それはそれとして、タミー・ストロナッハはとても可愛かったです。
原作ではバスチアンがファンタージエンを救うことができる人間が自分だと受け入れるまで、だらだらと長くてしんどいのですが、その点映画は割とあっさりと受け入れます。
ただ、幼ごころの君が泣き落としでバスチアンを説得するのはいただけません。
「私がどうなってもいいの!?」ってもはや脅迫。恋人同士の痴話げんかみたいな台詞のやりとり。
「名前を呼んで!」と命令されて、やっとこさ、腰をあげるバスチアン。もはや本人の意思というより無理矢理やんって感じ。
しかも、バスチアンは想像力のある子供で、だからこそファンタージエンの救い主として選ばれたと思うのですが、彼が叫ぶのは母親の名前!? いや、そこは、原作通り彼のひらめきにすべきでは?
ドイツ語では月の子、モンデキントと名付けるのですが、英語では「ムーンチャイルド」。ムーンチャイルドなんて名前の母親、おるか?
そして、エンデが製作の中止かタイトルの変更を望み、訴訟にまで至った問題のラストとなります。
原作の、空想の世界に逃避するなかれという精神と真逆な、バスチアンのいじめっこに対する報復。
これは、私も唖然としました。なんて安易なラストだろうと。
というか、あのラストもまた、空想の中で空想のいじめっこを登場させて報復しているのか、現実の世界に現れて実際のいじめっこに報復しているのかよくわかりません。仮に空想の世界から現実の世界に現れたとしたら、もはやなんでもありですよね。
そんな訳で最後で台無し感のある映画ではあるし、原作のイメージからすると、ちょっと違うなーと思う部分もたくさんあるのですが、なぜか嫌いになりきれない作品というか、当時の公開までのわくわくした気持ちも手伝って、時々見直したくなる一本なのです。
そして、ある程度エンデの意向に沿った『ネバーエンディング・ストーリー2』の方は、一度観たっきりであまり魅力を覚えないのも不思議です。『ネバーエンディング・ストーリー3』に関してはもはや映画オリジナルストーリーなので観る気もしません。
当時のSFXの稚拙さもあるので、今の技術で今度こそもっと原作に忠実な映画を撮って欲しい気もするのですが、原作通りなら映画として魅力的なのかと言われれば、それはまた別のお話。
余談ですが、当時、私は演劇部で、この『はてしない物語』を舞台化したのですが、それこそ可能な限り原作の台詞に忠実に作ったものの、映画を観たとき、いかにビジュアルとして効果的に見せるかという部分は脚色も含めて大変勉強になりました。
今、もう一度『はてしない物語』を舞台化する機会があったら、もっと舞台の上で映える見せ方を考えられたと思います。