公開当時、気になっていましたが、やっとアマプラで観られました。
何しろ、監督リドリー・スコットにマット・デイモン、ベン・アフレックなどの共同脚本と出演。
そこにアダム・ドライバーも加わるとなれば気にならない訳がありません。
巷でも話題になっていましたし。
しかし、いざ観ると、3部形式になっているのですが、最初の第1章で何度も眠ってしまい、挫折しかかりました。
2章以降からはやっと話に引き込まれ、最終的には面白かったとは思うのですが。
奇しくも丁度山岸凉子の『レベレーション(啓示)』を読み終えたばかりで、かのジャンヌ・ダルクがフランスの王位につけたシャルル7世の父親シャルル6世の時代が舞台となっていて、時代背景的にはわかりやすかったです。
とはいえ、百年戦争の頃の王位継承は非常にややこしくて、『レベレーション(啓示)』の中でもわかりやすく説明はしてくれているのですが、それでもこんがらがります。
シャルル6世は幼い頃から王となり、20代で精神的病を発病し、狂気王などと呼ばれている人で、映画の中では登場シーンは少ないものの、若い頃にすでにその狂気の片鱗を垣間見せる演出は背景を知っていると納得します。
この時代はのちの華やかなブルボン王朝とは違って、陰気で重苦しい雰囲気が漂っています。
自分は中世のお城の重厚な雰囲気が嫌いじゃないのでビジュアル的には楽しめました。
それにしてもアダム・ドライバーはよくこんな役を引き受けたなーと思います。
ベン・アフレックがいい感じに年をとって、ちょっとクリストフ・ヴァルツっぽかったです。
ジミーちゃん(マット・デイモン)もすっかり貫禄がでて、若造感がなくなりました。
ネタバレ
史実が元になっているということですが、この映画に関してはかなり残された記録に沿っているようです。
詳細などはフィクションにせざるを得ないというのは理解出来るので、大枠の事件としては多分ほぼほぼこんな感じなのだと思います。
ノルマンディーの騎士ジャン・ド・カルージュと、親友のジャック・ル・グリ、そしてジャンの妻であるマルグリットと、それぞれの視点で事件が描かれるという点では芥川龍之介の『藪の中』、それを原作にした黒澤明の『羅生門』が思い出されますし、それを引き合いに出す人も多いです。
ただ、『藪の中』ほど真実が不明確という訳でもなく、それぞれの視点の差も微妙なので、わかりにくいかなーという感じはします。
同じようなエピソードが3回繰り返されるのもちょっとくどいうというか、内容の割に丁寧過ぎるというか長すぎるかなーという気はします。
思い直してみれば、ジャンの視点でみればジャックがこざかしく、陵辱された妻のために雄々しく立ち上がる勇敢なる騎士と行ったイメージになり、ジャックの視点でみれば、頑固で融通のきかない世渡りベタなジャンと、誘惑的なその妻という視点になります。
そして、マルグリットの視点からみれば、自分は長年の確執を晴らすためジャックと決闘したいと言う夫の口実にされただけで、ジャンもジャックも自分の気持ちを無視している点では彼女にとってどちらも変わらぬ存在という感じがします。
このあたりの視点の違いが実に繊細な描写で表現していて、うっかりするとその違いがわかりにくいのですが、よく考えると確かにジャンの視点のジャックとマルグリット、ジャックの視点のジャンとマルグリットと、妻の視点のジャンとジャックは違う印象となっています。
ジャックは日頃から強姦的性癖を楽しんでいるような男なので、マルグリットの本気の抵抗もそのように捉えています。だから彼としてはマルグリットを強姦したという自覚はないし、共に楽しんだだけだという認識でいる。そういう認識だからこそ決闘で死ぬ間際まで強姦はいしていないと言い張れるのでしょう。
初対面のマルグリットの挨拶のキス後の反応や、テーブルでの会話、ジャンと踊る間も自分に向けられる視線、そして城を訪れた際に逃げながらもきちんと靴をそろえて脱ぐあたりの描写など、すべてがジャックに都合のいいように記憶が改ざんされているあたりが非常に怖いです。
時代背景もあるのでしょうが、現代でもストーカーとか思い込みの強い存在と言うのはいるし、こうした認識のずれが一番厄介というか、自分のNOという主張が相手に都合良く解釈されてまったく伝わらないというのは本当に恐ろしいことだと思います。
ジャンが妻をひとりにするなと言いつけたにも関わらず、彼女がひとりになるシチュエーションを作ったのが、ジャンの実母と言うのがまたなんとも。
実母は実母で、実はジャンに子どもを作る能力がないことがわかっていたのか、後継欲しさにあえてジャックに強姦させたようにも感じます。
誤算はその事実をマルグリットがジャンに告げてしまったこと。実母の価値観では強姦されても、家の為に女は黙って耐えるものだと思い込んでいたからこれは計算外だったのでしょう。
マルグリットはジャックに強姦され、その後もジャンにも強姦まがいの性交を強要され、タイミング的にはどちらの子どもが出来ても不思議はなかったのですが、私はおそらくあの子どもはジャックによるものだと思っています。
幼い子どもは金髪でしたが、金髪の子どもが大人になって黒髪になることもありますしね。
ラストの子どもを見る彼女の表情が微妙だったのもそういう不安のようなものがよぎったからではないでしょうか。
何しろこの時代は子どもが出来るのはエクスタシーを感じたか否かで決まると信じられていたのですからね。
決闘裁判の3年後にジャンが亡くなったので、仮に子どもが黒髪に育ったとしても彼に責められることもないだろうし、それを画策した義母からも責められることはないだろうから、そういう意味で彼女はジャンの死後は心穏やかに過ごせたのではないだろうかと感じます。
とにかく妻に感情移入しているものだから、決闘裁判の悲惨な末路を考えると、是が非でもジャンには勝って欲しくて、決闘シーンは非常にはらはらしました。
このあたりの決闘シーンの見せ方は迫力がありさすがに上手いです。
そういえば『ゲーム・オブ・スローンズ』でも決闘裁判出てきましたね。あれもはらはらしたし、こんな方法で審議がなされるというのは怖いと感じました。
決闘に負けたジャックは丸裸にされて吊るされてさらしものにされる。いやはや、強姦魔と全裸でつるしあげというこんな役をアダム・ドライバーはよく演じたと思います。
とはいえ、ジャックの傲慢さがとてもイライラするので最後はちょっと溜飲が下がります。
でも結局自分が悪かったという認識がないのはすっきりしません。
とりあえず、ジョンが負けて後味の悪い結末になるのではないかと恐れていたので、そうならなかっただけでも良かったです。
動物には生存本能があるし、子孫を残そうとする本能もある。その為に生存するに有利な立場、家柄、そうしたものが至上となるというのもこれまた必然ではあるのだけど、そのために犠牲になること、歪んでいくということを、そういったことを今一度考えてみるというのも大事なのではないかなーと思いました。
全般的にみれば過去において女性の立場がいかに弱く、男性の付属物にされてきたという歴史を痛感する映画で、今も大なり小なり変わらない部分もあり、この世界の成り立ちと仕組みというものを改めて考えさせられます。
ポリコレ的に主張が押しつけがましい映画が多くなったように感じる昨今ですが、この映画にはちょっといろいろ思うところがありますね。
なんだかんだ見応えのある映画だと思います。