ネタバレあり

 

ウィリアム・フリードキン監督逝去ということで、久しぶりに観た。

今回観たのは1973年の公開された本編にカットされた15分ほどのシーンを追加され2000年に公開されたバージョン。

 

実は私、このディレクターズカット版は好きではない。でもオリジナル版を観ようと思って間違ってこっちを観てしまった。

ディレクターズカット版は原作に登場するスパイダーウォークなど、ファンの間では幻のシーンとされたものが復活したことには興味はあったが、実際のところあってもなくてもいいようなシーンで、むしろある方が違和感というか、どうもあのシーンは唐突で意味不明な感じが否めない。まあ、スパイダーウォーク自体はもともと『尼僧ヨアンナ』で描写されたシーンのオマージュというか、悪魔憑きの象徴的事象のひとつなんですけどね。

悪魔の顔がサブリミナル効果のように挿入されるのもくどい。そもそも悪魔の顔などはっきりみせない方がいい。オリジナルのようにただ一回一瞬現れるだけの方が効果的な気がする。

また、映画の設定で、遺跡から発掘されるメダルがあるのだが、これと同じものがカラス神父も身につけていて(あるいは遺跡のメダルがカラス神父のもとに転送されているのか)、最終的にダイア神父の手に渡されるというくだりも、ディレクターズカット版だと再びクリスの手に渡されるというのが、いまいち釈然としない。

あのメダルは悪には悪を護符としていた時代をへて、キリスト教以降に現れる善なる力を表していると思うので、ダイア神父が引き継ぐとした方がいいように思えるのだが。

無神論者のクリスに、善なる力、信仰が受け継がれるというのもありと言えばありなのだが、自分はダイア神父が受け継ぐとしたした方が好き。

もっとも続編『レギオン』(エクソシスト3)ではダイア神父は非常に悲惨な末路となるので、受け継ぐうんぬん話ではなくなるのだけど、続編はあくまで続編として別物と考えたい。

ラストは原作通り、キンダーマン警部補とダイア神父の今後の交流を思わせる温かみのあるものとなったが、私は1973年のダイア神父がエクソシストステップを見つめて去って行く哀愁あるラストが好きだったんで、これもいまいち。

総合的にみて、やっぱりオリジナル版の方がよいなーと思う。

でも、まあ、より原作に忠実になったディレクターズカット版も切り捨てられないものはある。

それに原作者自らメガフォンをとった『エクソシスト3』とのつながりを考えるとディレクターズカットのラストの方が原作未読の人でもすんなりはくる。

 

今回久しぶりに見直して、メリン神父がイラクに滞在中に鍛治屋と出会うシーンで、その鍛治屋の目が片方白濁しているという、謎のカットが長年気になっていたのだが、最近岡田斗司夫『もののけ姫』の解説をYouTubeで観て、たたらばの労働者は火にさらされることで片目を失明する人が多かったという話を聞き、この鍛治屋もそういう理由で片目が白濁してたのかなーなんて納得したり。

結構シーンとしては意味深なんで、毎度これは何を意味してるんだろうと考えるんだけど、よくわからんのよね。でも異国のなんだかわからない不穏さみたいなものは感じられて、多分これから訪れる厄災に対しての漠然とした不安感みたいなものを表現しているんだろうなーと思っている。

メリン神父が途中で馬車に引かれそうになるシーンで、乗ってる老婆がどことなく悪魔っぽいのも、そうした表現の一環かと。

 

それにしてもメリン神父がパズズの像と遭遇するこの一連のプロローグがやたら壮大で、その後そのパズズがなぜかアメリカの女優の娘に取り憑いて、ひたすら地味にまわりに精神的ダメージを与え続けるだけというのが、ものすごいギャップだったりする。

しかも、なぜ古代アッカドの悪霊がわざわざアメリカに渡ったのか、なぜ、原作者は悪霊をパズズとしたのかは不可解だったりする。

そもそもリーガンに取り憑いたのはパズズそのものだったのか、それとも悪霊の王であるパズズによって使わされた別の悪霊だったのかもよくわからない。カラス神父は複数の悪霊が取り憑いているとみたが、メリン神父ははっきりとひとつだけだと断定する。

しかし、パズズ自体が取り憑いていたとしたら、パズズのやることが意外に小規模というか、地味だなーと感じる。

やはりここはパズズの手下が取り憑いていたと考える方がすんなりくるかなー。

それにしてもキリスト教的には悪魔のボスは堕天使ルシファーだと思うのだけど、ここであえて異教徒の悪霊をセレクトするというのは、異端とか異教に対するキリスト教の潜在的恐怖を表しているのだろうか。

あるいはアメリカと中東の間にある因縁みたいなものを表しているのかなーなんて思ってみたり。

 

もっともこの物語は本当に悪魔が取り憑いたかどうかと言うのは実は問題ではなく、悪霊はあくまで現代社会のほころびを表すメタファーであると私は思っている。

また物語の構造はほぼ『尼僧ヨアンナ』と同じで、その元となったルーダンの悪魔憑き事件がベースとなっている。カラス神父の衝撃的な結末も、まんまこの事件で悪魔払いに関わったイエズス会の修道士ジャン・ジョセフ・スランと同じと言える。ただ、悪霊を自らの身に引き受けたスランは身投げはしたもののその時点では死んではいない。

キリスト教的にはこのような自己犠牲的行為は、キリストが自ら人間の罪を背負って犠牲になった行為と同じということもあって、非情に崇高な行為とみなされているようだ。

私はキリスト教徒ではないが、はじめて『エクソシスト』を見たのは小学校6年生の時で、少女に取り憑いた悪魔が本当に怖くて、その悪魔と戦う神父はヒーローだったし、その神父がふたりとも亡くなってしまう結末は本当にショックで悲しかった。そして、命をかけて少女を救った神父の行為に純粋に感動を覚えた。以来今日至るまで『エクソシスト』は私の中でトップに輝くホラー映画となっている。

 

なので、この映画を悪魔の勝利とみる人もいるが、原作でもカラス神父の行為は勝利を示唆するものであったし、私も単純に悪魔の勝利とは思えない。

この物語はそもそも悪魔がいたかいないかは非常に曖昧だし、映画においてはカラス神父の行為を勝利ととらえるか、敗北ととらえるかは、その人の解釈次第という気がする。

原作でもこのカラス神父の死に関してキンダーマンは現実的な解釈をしているし、ダイアは心情的に別の解釈をし、そこに希望を見出している。

 

私個人としては勝利の物語ととらえているけどね。でも勝利してももの悲しさが残る、そこがこの物語のよさだと思っている。

 

ということで、『エクソシスト』について語り出すと長くなるので封印していたのだが、フリードキン追悼の意味もこめてここでついに語ってしまった。

まあ、オリジナルとディレクターズカットの比較をメインにあっさり語ったので、手短にまとめられたかな。

とりあえず細かく語り出すと、きりがなくなるので、今回はこの辺で。