一般的なカテゴリーによりますと、こちらはミステリーなんだそうです。

ミステリーの定義がよくわかりませんが、私としてはこれはホラーに分類される作品です。

ちなみに東野圭吾の原作は未読です。

 

もう、予告の段階からね、背筋がぞわっとくる映画でした。

脳死した娘の体を電気指示で動かすという時点で怖い映画じゃないですか。意識のない娘の手足が動いている映像だけでなんとも言えない薄気味悪さを覚えました。

 

子供の死を扱った映画だからそりゃー泣きますよ。でも「泣ける映画だったよ」と人にお勧めする気にはなれません。

とにかく、ずっとつらい気持ちになる映画です。このつらい気持ちは『ヘレディタリー/継承』を観た時の感覚に似ていますね。

自分は子供がいないけど、もし子供がいたら、そしてこんな風に失ったら発狂するんじゃないかという気がするだけに、母親の嘆きには共感してしまいます。

何故、人は時にこんな悲しみや苦しみを味わうのだろう、人生ってなんだろう、なんて所まで思い巡ってしまい、結構私にとっては鬱映画です。

 

 

ネタばれ

鬱映画と言ったが、これは母親をはじめ、ひとりの少女の死を受け入れる物語だと思う。

肉体の死か、意識の死か、という問題よりは、肉体が生きているからこそ、いつか意識が蘇るのではないかという希望が残ってしまう、それ故になかなか死が受け入れがたくなるというところに、問題がありそうな。

なまじっか技術によって、娘の体が動いたりするものだから、その僅かな希望を捨てきれず、母親が狂気じみていく。

この家がたまたま金持ちで、たまたま援助する人がいて、たまたまそういう技術開発の会社の社長が夫だっという、ある意味好条件だったことが苦しみを長引かせるという皮肉でもある。

この場合、人はどこで娘の死を受け入れるのだろうか。経済的に苦しい立場ならば生命維持装置の費用だけで諦めることもあるだろうが、その気になればずっと生かし続けることが可能という状況では落としどころがわからなくなる。

僅かな希望にすがることで娘の死を受け入れることから目をそらしてきた母親が、結局家族やまわりを追い詰めていることに気がついた時、彼女はやっと娘に対しての後悔を昇華し、娘の死を受け入れる事が出来た。もっとも、もし娘に対する後悔、この場合娘が母親を連れて行きたかった場所にたどり着けなかったら、母親はいつまでも踏ん切りがつかなかったのだろうか。

母親が踏ん切りがついたことの象徴として、娘が夢の中で母親にお礼を言い、この世から立ち去ると告げる。娘の死を受け入れる物語としては非常に陳腐でベタに泣かせるシーンだが、結局それしか物語の落としどころがないのかな。ここで母親が娘が成人するまでとことん生かし続けるみたいな話しになったら、そこまで突き抜けたらすごいなーと思うところだが、まあ、さすがにそれは一般受けはしないだろうし、そこは無難にまとめた感はある。

とにかくこの物語の特筆すべき点はやはり脳死した娘を体だけ動かすというグロテスクさにある。彼女の体を動かす研究者などはまさにマッドサイエンティストっぽいし、フランケンシュタインのような薄気味悪さがつきまとう。さらに、完全にフィクションというよりどこか現実味があるから余計に気味悪さに拍車がかかる。

その最たる場面が人形を受け取り娘がほほえむシーン。あれは心底ぞっとした。これまで母親に協力的だった父親でさえ、その異常さにはじめて気がつく場面としてよく出来ている。この一点だけみてもかなりホラー度高い。

意識のない娘を連れて、まるで生きているようにふるまう母親に、正直まわりも戸惑うだろう。事情を知らなければ脳死をした娘を連れ歩いているとは思わないし、何か障害のある娘がたまたま眠った状態にあるのかと解釈するので、そこまで奇異な目では見ないとは思うけど、事情がわかるとちょっと引くような気がする。

そういう意味では一見ヒューマニズムなドラマを装っているが、非常に異色な映画と言える。この異色さは一見難病を扱ったヒューマンドラマを装いつつホラーだった野村芳太郎監督の『震える舌』とも通じる。

この物語の中で、弟や従姉妹がとても可哀想に思えたし、警察まで呼ぶような騒動になった後で、再び娘をつれて家族四人で出かけることにはちょっと違和感を覚えた。あの騒動の後、この弟は脳死した姉を納得して受け入れたのか、母親の為に受け入れる姿勢をとっているのか、よくわからない。従姉妹にしても少女が自分犠牲になって死んだと言う思いはその後もひきずってしまいそうに思える。結局は心に傷を残す結果になっていなければいいのだけど。

そう言う意味では映画は少なくとも表面上はきれいにまとめちゃってるなーと思う。

(そういう救いが一切ないのが『ヘレディタリー/継承』なんだけどね。強いて言うならあれの救いは狂気かなー)

 

タイトルの『人魚が眠る家』が何を現しているのか、溺れて亡くなった少女と人魚を引っかけているのか、自分の命と引き替えに王子の命を救った人魚姫からきているのか、まったく違う意味があるのかはわからない。ただ、この映画が最初に少年が少女の眠る姿を目にし、最後に彼女の心臓が移植され、その心臓に導かれるように、かつて彼女が住んでいた家の跡地に立つと言う構成なので、心臓移植を受けた少年が見知らぬドナーへと思いを馳せた幻想のようにも思える。実際にはそんな少女は最初からいなかったのではないだろうかとさえ思わせる。

そういう意味では寓話的というか、幻想的なお話である。

 

それにしても、見終わった後、どことなく臓器提供推進CMを見たような気分になった。ほら、臓器を提供すれば、あなたが失った存在が誰かの体で生き続けるのですよと言われているような、それもまた癒やしや慰めのひとつかもしれないが、若干長い広告を見たような後味だ。

(それにしても医者が両親に臓器移植について意思確認する場面はタイミング的にすごく残酷に思えたなー。実際あんな感じなのかなー。)

 

キャストはまあまあ悪くなかったが、篠原涼子の母親だけが、なんだか演技っぽい演技だなーと思ったら、松坂慶子ではないか。相変わらずの松坂慶子節で、この人だけちょっと浮いてるように思えた。