ネタばれで語ります。
カトリック教会の性的虐待事件を最初にニュースで耳にした時、「さもありなん」と思ったものだ。
人間の三大欲求である性欲を抑圧して生きる聖職者たちは、当然その弊害があるはずだろうと考えていたからだ。いやまったく弊害がない方がおかしい。
(実際、映画で語られる数値によると50%の聖職者がそうした戒律を守れないでいる)
日本だって、鎌倉時代に95人の少年を抱いた高僧なんかが存在するし、聖職であっても所詮人は人。突き詰めれば本来人間の性欲というのは見境がないものなのかもしれない。https://cakes.mu/posts/12689
しかし、私はカトリックと関わる生活をしていないので、それがどれほど衝撃的なことなのか、どれほど被害者に傷跡を残しているのか、その事件を告発することがどれほど大変なことかは漠然としか捉えていなかった。
そういう意味で、この映画は大変興味深く、大きな権威に立ち向かうというシチュエーションにも燃える。
何しろ2000年近い歴史を持ち、キリスト教最大の教派と言われるカトリックという組織を糾弾するのだから並大抵ではないのは当然のこと。
ただ、さすがにカトリックとあって、いわゆるマフィアの大物を告発するのとは訳が違うというか、その妨害行為もそこまでえげつないものではない。
(いわゆる『アンタッチャブル』とかギャング映画だと、すぐに撃ち殺されたり、爆破されたりしがちだけど、さすがにそういうシーンはない)
しかし、何しろ教会は地域社会に密接に根付いていて、日刊紙の新編集長が赴任するとわざわざ枢機卿に挨拶に出向く慣習まである。そこはかとない圧力が随所にもたらされる。
そんな中、共に協力していこうという枢機卿に「新聞は偏らず、自立した存在であるべき」と言い放つセイバートゥース、もといバロンが格好いい。
というか、スポットライトのメンバーも皆信念と正義感に溢れていて、ちょっと美化してないか? ってくらい格好よい。
執拗なまでに教会の告発を勧める編集長バロンがユダヤ人であること。またこの映画がユダヤ人が多いと言われるアカデミー賞で作品賞を取ったという意味では、カトリックの権威を引きずり下ろしたいユダヤ人の攻撃を感じなくもないのだが、それは考えすぎか?
しかし、糾弾する側の弁護士にしても、どこか異邦人的なのは、なかなかこうした問題を告発するのはコミュニティに所属している側には難しいものなのだなーと言う感じがする。
マイケル・キートンが『バードマン』といい、俳優としての頭角を再び現しているなーと感じる。
ギャラベディアン弁護士演じるスタンリー・トゥッチもよかった。
映画はひたすら取材を続ける記者の淡々とした地味な描写が続くのだが、語られる内容は興味深く、退屈することはなかった。
特に終盤にかけて、静かな緊張感がはりめぐらされる。
電話が鳴り響くラストは思いがけず胸にこみ上げるものがあり、まさかこの映画で涙が出そうになるとは思わなかった。
大きな権威の下で傷つけられ、その事実はもみ消され、これまで声をあげることの出来なかった被害者たちが、告発記事によってやっとその思いを開放出来たのだと思うと、胸が熱くなる。
そして、こうした思いがこみあげた直後にエンドとなるあたり、終わり方が絶妙。
必要以上にセンチメンタルにならず、しかし静かに力強い余韻が残った。
映画によるとカトリック教会の小児性愛者の割合は6%。小児性愛者はその精神年齢が12歳程度となにか発達障害なのか、病理を感じるもので、なぜ、ある程度のパーセンテージで小児性愛者が存在するのか、そのメカニズムは何なのかといろいろ気になる。出来ればあの電話口にしか登場しなかった心理療法士の話をもっと聞きたかった。
事件を起こした神父のひとりが「そこに悦びはなかった」と言うのは意味がわからなかった。肉体的快楽がなかったからセーフという意味なんだろうか? この神父のインタビューももっと聞きたかった気がする。
この映画ではいわゆる「子供がいたずらされる」という言葉の意味を具体的に追求するシーンがあるが、比較的露骨になりすぎないさじ加減がよかった。
ちなみに私は子供の時から聖職者に非常に憧れというか幻想を抱いていて、ファーザーと呼ばれるように、永遠の父性の象徴というイメージを持っている。
実態はともかく、私の中にはそういうイメージがあり続けるし、聖職者の中にはそうしたイメージを具現化した高潔な人物もいるだろう。しかし、人間がある種の理想的姿であり続けるのはそう簡単なことじゃない。