昨日は算数オリンピックの決勝進出者や、全統小の入賞者の発表がありましたね。

SNSは、喜びにあふれた保護者たちの投稿でにぎわっていました。

でもその一方で、必ずといっていいほど現れるのが、教育熱心な親への冷笑的な視線です。

 

 

 

教育熱心な親を「承認欲求で動いている」「子どもで自分を満たそうとしている」と批判する人は多い。

けれど、それって「動機が100%ピュアでないと行動に価値はない」とする、なかなかに非現実的な前提に立っていませんか?

 

 

 

現実の人間の動機は、いつだって多層的です。

自己満足、見栄、後悔、愛情、名誉欲、焦り。

何か一つに純化されることなんて、むしろ稀かと。

 

 

でもそれでも、子どもが学力をつけ、未来の選択肢を広げているならば、

その行動には、十分すぎるほどの合理性がある。

 

 

 

そして、「SNSでの喜びの投稿=マウント」と断じる視点にも、冷静に見れば矛盾だらけ。

 

SNSは「公開日記」です。見るのも自由、見ないのも自由。

にもかかわらず、それをわざわざ覗きに行き、批判的に反応し、ラベルを貼り、また見に行く

この構造を繰り返している時点で、誰が誰に支配されているのかは、もう明白です。

 

 

 

合理的に対処するなら:

不快な投稿は見なければいい

比較して苦しいなら、距離を置けばいい

共感できないなら、ただ静かにスルーすればいい

 

選択肢が明確にあるのに、それらを選ばずに攻撃的になるのであれば、

もう問題なのは教育熱心な誰かの必死さではありません。

 

 

本当に痛々しいのは、

それに過敏に反応し、意味づけを重ね、

自分の優位性や安心を確保しようとする「感情のロジック」のほうではないでしょうか。

 

 

「マウントだ」「承認欲求だ」と名付けることによって、

人は相手を「下」に位置づけ、自分の感情を処理しやすくする。

でもその瞬間すでに、他人の言動を“餌”にしないと保てない心の構造が露呈しています。

 

 

 

それはつまり、見ているつもりが、見させられているということ。

反応しているつもりが、反応させられているということ。

 

 

本当に「痛い」のは誰なのか。

教育に全力な誰かの熱意でしょうか?

それとも、わざわざ覗きに行き、他人の必死を笑い、

そのたびに自分の立ち位置を確認しようとしている自分でしょうか。

 

 

その問いがふと浮かんだ瞬間、

おそらくもう、答えは出ているはずですね。