この雑誌『文藝春秋』一冊で芥川賞の二作品を読むことができる。
「今年は芥川賞と直木賞の受賞作品を読んでみよう」という小さな目標を立てたのだけれど、上期に四作品も受賞したので読むのが大変です。
でも、とにかく読むことに。
ちなみに直木賞は『オール読物』ね。
井戸川射子『この世の喜びよ』から。
主人公の意識の流れが二人称で語られていく。
一人称でもよいのに、この二人称のせいで読み手は主人公から引き離されてしまう。
主人公から読み手を引き離す理由があるのだろうか。
主人公は時間軸と空間軸の説明なく日常を語り続け、読み手側のことを考えていない。
この不親切さは主人公の自閉性を浮かび上がらせる。
そして語り手の言う「あなた」と主人公の言う「あなた」が読み手を困惑させる。
さらに主人公が言う「私」も困惑を上乗せする。
主人公の私(穂賀)が少女に向けた「あなた」と語り手が主人公の私(穂賀)に向けた「あなた」は最後のセンテンスで転化する。
それは穂賀と少女が同一人物になったとも言い変えられる。
穂賀は「胸を体いっぱいの水が圧」し、少女は穂賀から「伝えられ」て「何か」を引き継ぐ。
「水」とは若さであり、心の充実である。
ただ、そこには穂賀の自閉性が潜んでいる。
捕えられ、繋がれ、免れない、閉鎖的な将来を約束された「何か」を少女は引き継いだ。
穂賀は「何かを伝え」て「喜び」を感じ、若さの喪から明けた。
主人公の穂賀は若かった自分がもう若くなくなった、つまり若さからの喪中で、本来の自分ではなかったため二人称で語られていたのだ。
ここで、若くない本来の穂賀の姿になれた。
ところで、穂賀から「何かを伝えられた」少女は喜びに満たされるのだろうか。
10代半ばの少女が閉鎖的な将来を伝えられて決定づけられた。
そこにネグレクトやヤングケアラーが見え隠れする。
読後にはすっきりしない「何か」が残る。
それは虚無なのかもしれない。
全国のどこにでもあるショッピングセンターが舞台であり、どこにでも主人公や少女が存在する可能性をはらんでいる。
日常の中にある虚無とは、エブリデイマジックならぬエブリデイホラーとでもいうのか。
はたまた、二人称で日常が語られる新私小説とでもいうのか。
ならば純文学ということになる。
全体的にはアイロニーに満ちている作品である。
人称に困惑して読むのに時間と神経を使った。