世界全体が物騒になってる。


こんなに物騒になったことってなかったように思う。

そう思って現代史を調べてみたら、
そんなことはなかった。

アチコチで紛争やテロやジェノサイドや

そんな物騒な出来事が起きている。

つまりは、情報を得られるかどうか、

得た情報を認識するかどうか、だった。

こうした自分自身の問題に直面してしまった。

この問題は、また別の機会に考えることにする。


物騒なことの発端のだいたいは

認識のぶつかりあいだったりする。


そのぶつかりあいの中で
組織と個人の存続のバランスが
問題になっていたりする。

そして、時間軸と空間軸が絡み合いながら広がり、
ある一点のどこかの座標で

ボンッボンッと物騒なことが起きる。


昔は我々の国の一部だった。

ルーツは同じ部族だ。

右か左か。赤か青か。

神様のこととか。


そんなような理由だったり、いろいろ。

社会における大きな組織の代表としては
「国」をあげられるだろうし、

小さな組織ならば「家族」をあげられるだろう。


「国」という大きな組織を考えるにいたると
大きすぎて実感がサッパリわかない。

だから「家族」で考えてみることにする。

家父長制を推奨したのは明治政府だった。

父親を代表とした家族。

父親が働き、母親が家庭を守る。


できる人がやればいいのだが。


でも、そんな役割分担がいつのまにか浸透した毎日を過ごしていたら、母親が自立したいと申し出た。


離婚だ。

許さん。


家族とは便宜的に父親を代表とした「組織」である。

そして「組織」は「個人」の集合体でもある。

代表者も「個人」であって、

「組織」を構成している「個人」の一部にすぎない。


その1人が欠けることを恐れた父親が

母親が欠けることを阻止しようとする。

ここでドメスティックバイオレンスという物騒なことが起きてしまう。

代表者たる父親全員がそれを選択するわけではないが、そのような行動を選択する代表者は、「個人」を所有物と認識しているからなのだろうか。


本当のことはわからないが

こんな性質を持った認識の違いが

物騒なことの発端のような気がする。

時間軸と空間軸が絡み合いながら広がる中で
ほどけなくなったら パツン と切って

リセットできないものだろうか。


価値観をリセットするのだ。
自然へ戻る。

エゴを捨てる。

足るを知るよう努力する。

違いを受け入れるよう努力する。

ユーモアも必要だ。


大きな組織の代表者が

認識の違いに気づいていないのか。


裸の王様みたいに滑稽だ。

でも、笑えない。

ぜんぜん。


恐ろしく

心が痛い。