突然ですが、私は今私史上完全なるどん底にいます。
(きっともっと辛い思いをしてきている方もいらっしゃると思いますが、私史上どん底なので、怒らず読んでいただければ幸いです。)
27歳
無職
独身
恋人なし
実家暮らし
貯金少なめ
親に借金
交際経験ほぼ0
事実をこうして文字にすると、生きてる価値が不明に思えてきます。
なんで息してんだ私。
こんな私も少し前までは、エリートでした。
周りからもエリートだと言われていたし、自分でもそう思っていました。
エリートと言われる経歴だけが私を支えてきました。
0歳からの英才教育のおかげか小さな頃から頭が良くて、幼稚園性の頃に中3の数学の問題を解くことができた。
もちろん勉強はしたけど、そこまで苦労することもなく女子御三家と言われる中高一貫校に入学し、
ストレートでW大学に入学。三大難関国家資格である国家公務員総合職にストレートで合格し、就職。
周りの友達は早慶上智以上がほとんどだったし、じゃなければ医学部。
社会人になっても、みーーんな超有名一流企業。
そんな環境にいて、正直なところ自分がエリートだという自覚と他者からの認識が私のアイデンティティの半分を構成していたように思います。
でも本当は、心のどこかで自分はそんなにエリートじゃないって分かってました。
だってそれなりに失敗してきたから。
でも失敗してもそれなりだったんですよね。だから、なんだろう、絶妙にプライドが折れなかったんですよね。
T大落ちたけどW大。就職も失敗したけど国家公務員。
何も知らない人からすれば変わらず私はエリートでした。
自分から説明しなければ分からない失敗。分からないヒビ。
だからエリートであろうとしました。
それだけが唯一私が周りに誇れることだったからです。
頭がいい。勉強ができる。
それだけが私のプライドでした。
本当は違うと分かっていても、なけなしのプライドのために、
自分は大したことない人間だと認めることがどうしてもできませんでした。
それが全部ひっくり返ったのが、5月にあった公認会計士試験での失敗でした。
勉強して1年で私なら受かるだろうとタカをくくっていた私は1科目大失敗をして1次試験に落ちました。
仕事しながら1年勉強して、「次の試験でいけるな。次では受かっておきたいな」と思った私は、2月末で会社を退職し、受験に専念することにしました。
1mmも落ちるかもしれないという将来設計をしないままに、会社をやめてそして見事に失敗。
ただの無職になりました。
その業界の人からは、「3ヶ月勉強に専念してたとはいえ、仕事しながら通信講座だけでそこまで点を取れたのはすごい。その1科目の失敗さえなければ絶対通ってたし、そんな人はなかなかいない。次なら絶対通る」と言われました。その言葉にしがみつきました。
「ああほらやっぱりね。私はすごいんだ。みじめなんかじゃない。」
自分がエリートじゃなくなったことを認められなくて、
自分が無価値だって信じたくなくて、
必死に目を背けようとしてました。
ミスコンに参加したのも、無価値じゃないって自分で思いたかったから。
私は無価値じゃない、生きててもいいって思いたかった。
今日、急にふと、
「あれ、私いまめちゃくちゃ無価値じゃん?笑っちゃうんだけどどうしたこれ?」って
27歳無職独身恋人なし貯金少なめ親に借金恋愛経験ほぼ0っていう今の私のありのままの姿をすとんって認識することが出来ました。
しばらく悔しさと怒りで頭が沸騰しそうでした。そして、泣きました。
でも、急に
「え、やばくない?むしろすごくない?今絶対人生で一番どん底だわ。どん底人間だわ。うけるわ。
こんなに無価値だったことないわ。やばいわ。」って少し笑えてきました。
次に「あれ、でも私どん底まんだったはずなのに、6月けっこう楽しかったな。」と気がつきました。
どん底なのに楽しく遊んだし、どん底なのに京都も秩父も行った。MAIKALANDのみんなとも会ったし、プラネタリウムイベントもあった。
「あ、どん底でも楽しいことってあるんだな。というかどん底でも楽しめるんだな」とすっと腑に落ちました。
間違いなく私史上
一番どん底だけど、一番無価値だけど、地位も名誉もないけど、
楽しく生きる権利はあるんだ、生きてていいんだ
って腑に落ちました。
私が、無価値な私を許せたのかなと思います。
根拠はないけど、どうにかなるかなって今は思えています。
これが「許す」ということなのだとしたら、「許す」ことは「愛する」ことにつながるんだなと思いました。